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第3回目の蝦夷地調査から5年の間に黒船に乗ったペリーの来航や、将軍家慶の死去、ロシアによる樺太(現在のサハリン)上陸など、大きな出来事が世の中を騒がせていました。
嘉永7年(1854年)3月の日米和親条約を皮切りに、日露和親条約などが締結されると、武四郎の人生にも再び大きな転機が訪れます。
日露間の外交関係は緊迫化しており、蝦夷地の調査は当時の幕府にとって重要な課題の一つでありました。その中で、武四郎は、安政2年(1855年)に幕府から蝦夷地を調べるよう命じられたのです。
こうして38歳の武四郎は、今度は幕府のお雇い役人として蝦夷地に渡ることになりました。武四郎に与えられた任務は、蝦夷地の山や川などの地理や、新しい道を作るためのルートを調べることでしたが、それとともに武四郎は、アイヌ民族の人口が激減している実態を調べ、幕府への調査報告書の中で、第一にやるべきことは、アイヌ民族の命と文化を守ることであることを訴えています。
武四郎は、第4回目の調査を安政3年(1856年)、第5回目の調査を安政4年(1857年)、第6回目の調査を安政5年(1858年)におこなっています。
向山源太夫を隊長とする調査隊の一行に加わった武四郎は、函館から日本海側を北上し宗谷まで行くと、北蝦夷地(旧カラフト、今のサハリン)へと渡り、中部のシツカ(旧敷香、現ポロナイスク)まで調査して、宗谷からオホーツク海側、太平洋側をまわって函館へ帰りました。
途中で隊長が病死するという悲しい出来事が起こり、武四郎自身も函館に戻ると、死を覚悟した辞世の和歌を詠むほどの重い病に倒れてしまいました。
※辞世の歌「我死なば焼な埋(うずめ)な新小田(にいおだ)に捨(すて)てぞ秋の熟(みのり)をばみよ」
※このときの調査報告書は、「按西扈従」・「按北扈従」・「按東扈従」と題して、32冊にまとめられました。
病から回復した武四郎は、予定していた樺太調査を変更して、かねてより希望していた石狩川や天塩川を河口から上流部まで遡る調査をおこないました。
※このときの調査報告書は、「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」と題して、23冊にまとめられました。
蝦夷地のほぼすべての海岸線と日高地方の河川、十勝、道東地域の内陸部の調査をおこないました。
※このときの調査報告書は、「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」と題して、62冊にまとめられました。