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明治新政府が成立すると、開城されて間もない江戸城に呼び出された武四郎は、京都へ向かうよう命じられ、大久保利通と面会します。
大久保は武四郎を高く評価していたようで、大久保は武四郎を政府に登用するよう進言し、武四郎は「箱館府判府事」、「蝦夷開拓御用掛」に任じられました。そして、明治2年(1869年)、戊辰戦争が終わり、開拓使が設置されると、これまでの蝦夷地調査の実績と、誰もが認める蝦夷通であった武四郎は、「開拓大主典」、さらには「開拓判官」に任命され、従五位に叙せられます。
武四郎は、「蝦夷地」に替わる新しい名称を考えることに携わり、明治2年7月17日に「北加伊道」などの案を政府に提出し、この案をもとに政府は8月15日に太政官布告を発布し、「蝦夷地」を「北海道」に改称し、11国86郡を置くことが定められました。
武四郎は政府に、蝦夷地にかわる名称として、「日高見道」、「北加伊道」、「海北道」、「海島道」、「東北道」、「千島道」の6つの案を上申しました。
政府はその中から「北加伊道」を採用し、「加伊」を「海」に改め、蝦夷地を「北海道」と改称したとされます。
武四郎が「北加伊道」と提案した背景には、アイヌ民族を指す古い言葉が「カイ」であるという話を、天塩川を調査した際に地元の古老から聞いたことに由来します。
この「カイ」という言葉に、武四郎は熱田大神宮縁起という書物に出てくる「加伊」という字をあてました。そして「北加伊道」という名前には、北のアイヌ民族が暮らす広い大地であるという、先住民族であるアイヌの人びとを尊重する思いが込められていました。
さらに、郡名や国名(のちの支庁名、現在の振興局名)についても、アイヌ語の地名に基づいた提案をおこなっており、武四郎が「北海道の名付け親」と言われる理由は、ここにあります。
明治2年(1869年)に武四郎が作り、開拓使から出版された地図で、北海道、カラフト(現在のサハリン)南部、千島列島が一枚の地図に納められています。
北海道という名前が政府で正式に決まってはじめて作られた記念すべき地図で、今の地図とは異なり、南と北が逆に表されています。