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松阪牛の歴史

松阪牛のふるさと

兵庫県丹波地方地図

松くん
松阪牛ってどんな牛」の中で、
松阪牛の中の「特産(とくさん)」は
兵庫県生まれでないとだめだと聞きましたが、
何か昔から引きつがれているものがあるんですか?

おじさん
兵庫県に但馬(たじま)という地域があって、
昔(江戸時代頃)の松阪地方の牛のほとんどは
ここから来ていたんだよ
(右の地図の上のほうに「たじま」があるよ。)
但馬地方で生まれた子牛を長い期間をかけて
いっしょうけんめい大切に育てていた。
そうすることでおいしい肉と評判(ひょうばん)だった。

阪さん
昔のことが知りたいな。松阪牛の歴史を教えて下さい。

 

 

兵庫県但馬地方
(伊勢文化舎「松阪牛 牛飼いの詩」より)

松阪牛の移り変り

おじさん
兵庫県の但馬地方は、山々には草がしげっており、水のきれいな谷川もあり、
恵(めぐ)まれた自然の中で、昔からたくさんの牛が飼われていた。
メスの但馬牛(たじまうし)は、体は大きくないけれど、よく働くおとなしい牛だったので、
江戸時代には和歌山を通り松阪地方に来ており、
農家が田を耕したり荷物を運んだりする役牛として使っていたんだ。

ちょっと豆ちしき

松君の画像1 阪さんの画像1

但馬(たじま)牛(うし)がやってきた
江戸時代には、紀州(きしゅう)(和歌山県)では牛の税金(ぜいきん)や数の決まりがなかったんだ。
それで、たくさんの但馬牛が生まれてまもなく紀州に送られた。
1年くらい農作業をしてきたえられ、2才の時に松阪地方にやってきた。
人の言うことをよく聞いて働(はたら)くので、農家の人によろこばれたんだよ。
おじさんの画像1

こんなおいしいものをなぜ食べないの?松くん
昔の人は牛肉は食べなかったんですか。

おじさん
牛だけではなくて、動物の肉はほとんど食べなかった。
日本では、仏教の教えで、
生き物の命を取ってはいけないとされていたからね。
江戸時代もそうだったけど――。

阪さん
明治時代になって、ヨーロッパやアメリカから新しい文化が
入ってきたんですよね。

おじさん
よく知ってるね。
日本人の生活もすっかり変わって、西洋人のように肉を食べるようになった。
その頃(ころ)から、松阪地方の牛はおいしいと評判だったんだ。
明治時代の初め頃(1870年代~1900年頃)には、2ヶ月に1回、
松阪から東京まで100頭以上の牛を連れて売りに行ったそうだよ。

ちょっと豆ちしき

松君の画像2阪さんの画像2

山路(やまじ)徳三郎(とくさぶろう)を知っていますか?
明治時代に東京へたくさんの牛を売りに行き、
松阪牛が有名になるきっかけを作ったのは、山路徳三郎という人だった。
良い牛をとどけるために大変な苦労をしたが、
それで松阪地方の牛のすばらしさが人々に知られるようになったんだよ。
おじさんの画像3

阪さん
その頃は自動車も新幹線もなかったから、歩いて東京まで行ったんですね。
昔の人はすごかったんだなあ。

おじさん
東京まで、歩いて3週間近くかかったそうだ。
そして、明治から大正・昭和にかけて
日本のあちこちで品評会(ひんぴょうかい)が開かれるようになり、
松阪の牛が次々に入賞するようになった。
1954年(昭和29年)、松阪駅から牛を出荷するときの写真。特に1935年(昭和10年)に東京で開かれた大きな博覧会
(全国肉用畜産博覧会(ぜんこくにくようちくさんはくらんかい)
で優勝して、これが「松阪牛」の名前を全国に広める
きっかけになったといわれているね。
松阪では但馬産まれのいい牛を、
農家の人たちも努力や工夫を重ねて育てたことで、
もっとおいしくなってきたといわれているね。
そして数々の品評会に出ていっそうみがきがかけられた、
というところかな。

 

1954年(昭和29年)、松阪駅の前で撮影された写真です。
当時、駅から出荷するときは松阪牛とわかるように写真をとるのが習慣になっていました。

松阪肉牛共進会とは

松くん
品評会といえば、毎年「松阪肉牛共進会(まつさかにくうしきょうしんかい)」が行われますね。
ぼくも見に行ったけど、最優秀(さいゆうしゅう)の松阪牛が選ばれて、
その後でセリ市があるんですね。

おじさん松阪肉牛共進会のセリ市の風景の写真
そう、農家がいっしょうけんめいに育てた
すばらしい特産松阪牛が出品される。
それも予選を勝ち抜いた50頭だけが出場できるんだよ。
優秀賞が1席から4席まで決まって、それからセリ市だ。

 

 

 

 

松阪肉牛共進会のセリ市のようす

 

よしとよ号の写真阪さん
セリ市では、肉屋さんや、スーパーマーケットなどの
肉に関係した会社の人が、よりよい松阪牛を買うために、
競争して買いたい値段(ねだん)を出して、
いちばん高い値段になったところが牛を買っていくのよ。
すごく高い値段がついたことがあるんですね。
 

 

 

 

よしとよ号(2002年第53回松阪肉牛共進会)
松阪牛協議会の理事会風景の写真

おじさん
2002年(平成14年)の第53回松阪肉牛共進会で、
「よしとよ号」という牛に5000万円の
高い値段がついたことがある。

阪さん・松くん
すごいなあ!

 

 

松阪牛協議会の会議のようす

松阪牛協議会とは

確かで良質な松阪牛!松くん
松阪牛にはすばらしい伝統と実績があるんですね。
牛を育てている農家の人たちは、
そのためにどんなことをしていますか?

おじさん
松阪牛協議会(まつさかうしきょうぎかい)」という団体があってね、
松阪牛を飼っている90戸ほどの農家が加入していて、
松阪牛をもっとおいしくて、安心して食べられるようにするには
どうしたらいいか、よりたしかな松阪牛を出していく方法は、
などをいっしょになって考え、実行している。

松くん
いろいろな方法やたくさんの人たちによって、松阪牛の安全と安心が守られ、発展(はってん)のための努力がつづけられているんですね。

解説・松阪牛の歴史

古代には日本でも牛などの肉食が行なわれていましたが、平安時代に仏教が定着すると、
その影響で肉食は途絶え、牛は専ら役牛として用いられました。
兵庫県但馬地方の雌牛は温和でよく働くので、
江戸時代には但馬の雌の子牛を規制や税負担の無い紀州(和歌山県)に移入して
ある程度まで大きくして農作業を教え、その後に役牛として近畿各地に送り出していました。
松阪周辺でもこの牛を導入していましたが、明治時代になって多くの人が肉を食べるようになると、
和牛、特に松阪周辺で育った牛は肉牛として優れていることがわかりました。
東京の有名レストランやデパートが松阪産の牛をわざわざ購入したり、
各地の品評会で優秀な成績を上げて、松阪産の牛の名は全国に知られていったのです。
20世紀中頃までの和牛は初めから肉牛として肥育する事はなく、
松阪周辺では、農作業に3~4年使った後1年ほど休ませて太らせた牛が肉用になっていました。
肉牛として本格的な肥育が始まったのは太平洋戦争後です。
戦後の1949年(昭和24年)からは松阪肉牛共進会が始まり、
優秀な松阪牛が出品されて高額で競り落とされる様子は晩秋の風物詩にもなっています。
2002年(平成14年)8月には松阪牛個体識別管理システムの稼動が始まり、
2004年(平成16年)11月1日には、松阪牛生産農家を中心に松阪牛協議会が結成され、
松阪牛の生産振興と安全・安心の確保のため活動しています。

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