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幕末の志士との交流

ページID:0108391 更新日:2012年2月20日更新 印刷ページ表示

志士たちとのまじわり

 外国の船がたびたび来航し、鎖国を解いて開国が迫られる中で、武四郎の家には日々、志士たちが集い、日本をどうやって守るべきかを真剣に話しあっていました。
 水戸藩の会澤正志斎、藤田東湖といった尊皇攘夷思想の中心にいた人物や、吉田松陰や悪謀の四天王との呼ばれた頼三樹三郎、池内大学、梁川星厳、梅田雲浜をはじめとする尊皇攘夷の志士たち、水戸藩、仙台藩、宇和島藩や幕臣たちと、その交友関係は幅広く、武四郎を中心とする知識人のネットワークが築かれたと言ってよいでしょう。
 一方、3度の蝦夷地調査が評価され、幕府お雇い役人として蝦夷地調査をおこなう話もたびたびありましたが、それを嫌った松前藩によって、その都度妨害を受けたため、実現されませんでした。

吉田松陰から預かった紹介状

 吉田松陰から預かった紹介状の画像武四郎は吉田松陰をはじめとして、数多くの幕末の志士たちと交流しました。
 写真は、嘉永6年(1853年)9月13日に、吉田松陰が大阪の坂本鼎斎という砲術家に宛てた手紙で、坂本鼎斎に武四郎を紹介するために書かれた紹介状です。
 手紙の中で松陰は、武四郎の足跡は日本全国に及び、蝦夷地のことに非常に詳しく、かつ海防問題にも心がけがある人と記しているほか、この年の6月にはアメリカのペリーが浦賀に来航し、7月にロシアのプゥチャーチンが長崎に来航しており、幕府でも開国の話が出ていることに対して、「幕府の腰抜武士が・・・」と、その姿勢を痛烈に批判しています。
 また、武四郎の自伝には嘉永7年(1854年)の正月、武四郎の家を訪ねた松陰と、夜更けまで海防問題について語り合い、武四郎の家には一つしか布団がなかったので、一つのふとんに二人で枕を並べて寝たことが記されており、親しく交流している様子がうかがえます。

※嘉永7年は11月27日に安政に改元されています。