明治維新に開拓判官を務める

印刷用ページを表示する掲載日:2012年2月20日更新

明治政府の役人を務める 

幕末の頃には、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允といった人びとも武四郎の家を訪れ、蝦夷地のことについて情報を得ていました。
なかでも、大久保は武四郎を高く評価していたようで、明治新政府が成立すると、大久保は武四郎を政府に登用するよう働きかけ、武四郎は「蝦夷地開拓御用掛」に任じられました。そして、明治2年(1869年)、戊辰戦争が終わり、開拓使が設置されると、これまでの蝦夷地調査の実績と、誰もが認める蝦夷地通であった武四郎は、「開拓判官」に任命されます。
武四郎は、「蝦夷地」に替わる新しい名称を考えることに携わり、「北加伊道」などの案を政府に提出し、この案をもとに政府は「北海道」に決定したとされます。 

北海道道名撰定上申書

北海道道名撰定上申書武四郎は政府に、蝦夷地にかわる名称として、「日高見道」、「北加伊道」、「海北道」、「海東道」、「東北道」、「千島道」の6つの案を上申しました。
政府はその中から「北加伊道」を採用し、「加伊」を「海」に改め、蝦夷地を「北海道」と改称したとされます。
武四郎が「北加伊道」と提案した背景には、アイヌ民族を指す古い言葉が「カイ」であるという話を、天塩川を調査した際に地元の古老から聞いたことに由来します。
この「カイ」という言葉に、武四郎は熱田大神宮縁起という書物に出てくる「加伊」という字をあてました。そして「北加伊道」という名前には、北のアイヌ民族が暮らす広い大地であるという、先住民族であるアイヌの人びとを尊重する思いが込められていました。
さらに、郡名や国名(今の支庁名)についても、アイヌ語の地名に基づいた提案をおこなっており、武四郎が「北海道の名付け親」と言われる理由は、ここにあります。 

北海道国郡図

北海道国郡図明治2年(1869年)に武四郎が作り、開拓使から出版された地図で、北海道、カラフト(現在のサハリン)南部、千島列島が一枚の地図に納められています。
 北海道という名前が政府で正式に決まってはじめて作られた記念すべき地図で、今の地図とは異なり、南と北が逆に表されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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