本文
三雲管内
91-169・228
松浦武四郎関係資料
(まつうらたけしろうかんけいしりょう)
国指定重要文化財
県指定有形文化財
国:1505点 県:223点/江戸時代~明治時代/小野江町 松浦武四郎記念館/国:平成20年7月10日指定1503点・平成28年8月17日員数変更 計1505点 県:平成4年2月21日指定305点・平成18年3月17日追加指定539点 計844点・平成20年7月10日重要文化財指定による解除702点 計142点・平成21年3月11日員数変更 計223点
松浦武四郎は、幕末期の北方探検家で文化15年(1818)に小野江町にある伊勢街道沿いの家(市指定史跡松浦武四郎誕生地)で生まれ育ったと伝えられる。弘化2年(1845)から安政5年(1858)にかけて6回にわたって、ロシアとの緊張関係にあった蝦夷地・樺太・千島列島の探査を行うとともに、詳細な調査記録や地図を作成した。明治維新には、新政府において開拓使の判官を務め、それまでの蝦夷地に代わる名称として「北加伊道」を提案、これに基づき明治2年に「北海道」と改称されることになった。アイヌ民族との共生に向けた先駆的な取り組みを行ったほか、晩年は古物の収集家として活躍し、各地を旅したほか、大台ケ原や富士山への登山を行い、明治21年(1888)に東京の自宅で亡くなった。その後、武四郎の資料は、東京の直系子孫と松阪の実家の両松浦家によって大切に守り伝えられ、平成3年、16年、17年の3回に分け、松阪市(旧三雲町)へ寄贈された。
このうち、平成3年寄贈分305点が平成4年に県の指定を受け、平成16、17年寄贈分539点が平成18年に追加指定を受けた。平成20年には1503点の資料が一括して重要文化財の指定を受け、それに伴い県指定資料の指定解除が行われた。また、平成25~26年度には国指定資料のうち「蝦夷屏風」の保存修理を行い、修理前は6曲1双で屏風の表・裏両面に書簡等が貼り付けられた状態から、表と裏を分離したことで、平成28年に2点が増え、1505点に員数変更された。