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射和祇園祭の屋台行事
(いざわぎおんまつりのやたいぎょうじ)
県指定無形民俗文化財
軽粉の町として栄えた射和町の祇園祭は、元禄期(1688~1704)頃に始まったといわれ、現在も古式をとどめて受け継がれている。
祭り組は香椎組・高砂組・三栗組・八雲組・素鳶組・宮本組からなり、それぞれに幟(のぼり)、大屋台と小屋台を持つ。組々では宵宮の朝から幟を立て屋台を組む。午後1時頃一番貝の合図で子どもを乗せた小屋台が神社下に引き出される。神社では、天王と八王子の2基の神輿に御霊が移され、神社を出て町々を練りはじめる。
小屋台は大日堂前の御旅所(おたびしょ)に勢揃いして、神輿の納まるのを迎える。夕方には大屋台も引き出されて、御旅所前の広場は大小12台の屋台と祭り客でうずまる。神輿は、小屋台6台に見守られて、御旅所で一夜を明かす。
本日は朝の一番貝で動きはじめ、コシカケたちの勢いのよいかけ声が聞こえる。夜ともなれば組々の祭り提灯が神輿の上にさしかけられ、祭りは最高潮になる。深夜、神社に帰る2基の神輿に、小屋台に乗る子どもたちはギオンバヤシで送る。
祇園祭に引き出される組々の大屋台の中で、最も古いものは、三栗組の安永9年(1780)~天明元年(1781)製作のものである。大きさは正面121cm、側面270cmで、鬼板に牡丹をしるす。中の人形は関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)である。香椎組は寛政5年(1793)で人形は神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)、武内宿禰(たけのうちすくね)である。小屋台は、台車に幟を立てた「幟枠」を屋台化したものである。江戸末のものが4台で、宮本組は明治7年、素鵞組は昭和初年頃と新しい。
射和祇園祭の屋台行事における小屋台と大屋台の本来の関係は、京都祇園祭の山鉾行事における、囃される鉾と囃す山の関係と同一であり、いわゆる山・鉾・屋台行事の本質的要素といえる。本行事は、射和の町の繁栄を背景に成立した、当地方における近世都市祭礼の例として重要である。