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阿坂城跡 附 高城跡 枳城跡

ページID:0109765 更新日:2026年6月1日更新 印刷ページ表示

概要

阿坂城跡(あざかじょうあと)  附 高城跡 枳城跡

・種別:史跡

・員数:〈阿坂城跡〉165,547m²、〈高城跡〉31,545m²、〈枳城跡〉9,697m²

・時代:南北朝

・指定日:昭和57年(1982)4月7日

・所在地:〈阿坂城跡〉大阿坂町枡形・椎ノ木谷・井戸谷、〈高城跡〉大阿坂町市谷・百々向、〈枳城跡〉小阿坂町坊谷・枳

・所有者等:〈阿坂城跡〉個人・浄眼寺・松阪市、〈高城跡〉個人、〈枳城跡〉個人

〈阿坂城跡〉 標高300m余の山頂に築かれた山城で、南北300m、東西150mの範囲に及びます。南北2つの郭からなり、北郭を椎ノ木城、南郭を白米城とも呼び、台状地を中心に、堀切、土塁等が配されています。応永22年(1415)、反乱をおこした北畠満雅(みつまさ)に対して幕府軍が阿坂城を攻撃しました。この時に、水の無いことを白米で馬を洗うことで幕府軍をあざむいたとの伝説から白米城とも呼ばれますが、この年の5月には、損害も少なく落城したことが当時の記録『満済准后日記』に記されています。また、永禄12年(1569)の織田信長軍による伊勢国侵攻に際しても、北畠具教(とものり)らが籠(こも)る大河内城(おかわちじょう)攻略の途上で阿坂城が攻撃されています。

阿坂城跡

 

​〈高城跡(たかじょうあと)〉 北東方向に突き出た標高70mの丘陵頂部に築かれた城で、「たかんじょあと」とも呼ばれます。東西140m、南北100mの規模をもちます。60m四方の主郭を中心に南東側に削平地、西側に切り込み平地、北東側に二重の堀切を配します。主郭をめぐる土塁は西側が幅15mと広く、他は5mと狭いですが、外側での高さは10mにも達します。主郭の東辺と西辺の中央は土塁が切れ枡形状の出入口を形づくっており、戦国期の城の特徴を備えています。『南方紀伝』に記される阿坂城の「両出城」が本城と枳城と考えられるところから、阿坂城跡の国指定に伴って枳城跡とともに附(つけたり)として指定されました。

高城跡

 

​〈枳城跡(からたちじょうあと)〉 阿坂城から東南に1km隔たった標高180m の山頂に築かれた山城です。城跡は東西に長い60×30m、高さ6m規模の台状地を中心に、東と西側に堀切を備え、北と南側には幅5~10mの平坦地が巡るだけの単純な構造です。なお、城跡の東側には現在も「城ノ下」という地名が残っています。

枳城跡