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松阪の礎を築いた戦国武将 蒲生氏郷とは

「豪商のまち 松阪」を作ったのは、蒲生氏郷(がもう うじさと)という戦国武将です。織田信長、豊臣秀吉に仕え、文武に秀で、歴史ファンの間でも人気の高い武将ですが、どのような人物だったのでしょうか。

信長が一目で認めた大器

蒲生氏郷蒲生氏郷は、1556年、近江日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)の中野城(日野城ともいう)城主・蒲生賢秀(かたひで)の嫡男として生まれました。

1568年、13歳の時、織田信長の人質として岐阜城に送られ、小姓として信長に仕えますが、信長は一目で氏郷の非凡な才能を見抜き、翌年には信長自らが烏帽子親となり、元服。

当時、小姓たちの教育係でもあった稲葉一鉄も「この子の行く末は百万の将たるべし」と賞賛したと伝えられています。

同じ年、信長は、南伊勢の北畠氏討伐の折、氏郷に初陣を飾らせると、直後に自分の娘・冬姫を嫁がせて、日野へ帰国させます。

信長がいかに氏郷を気に入っていたかがうかがえます。

松坂城築城

サンプル画像

織田一族となった氏郷は、その後も度々武功を立てますが、1582年、本能寺の変で信長が自刃すると、安土城にいた信長一族を中野城にかくまい、この後は秀吉に従います。

1584年、それまでの功績により、南伊勢12万3千石の松ヶ島城主となった氏郷は、松ヶ島城の南約4Kmにある小高い丘、四五百森(よいほのもり)に新たな城を築きます。

城造りは急を要し、資材調達のため、松ヶ島城の瓦の一部を再利用、石材には、河原石の他に、古墳時代の石棺の蓋なども使われました。城は3年で完成し、1588年に入城した氏郷は、秀吉の作った大坂から一字をもらい、城下町を「松坂」と改めます。 

軍事・経済の要所となる町の整備

氏郷は築城と同時に、城下町も整備します。城の周りは武士の住む殿町、その外側に松ヶ島城下から移された神社や寺を置き、守りの拠点としました。

さらに、これまで海の近く、松ヶ島城下を通っていた伊勢街道を、松坂城下を通るように移動させ、それと平行に職人町通りや魚町通りを、松坂城正面に大手通り、他にも新町通り(後の和歌山街道)などを整備しました。

敵の侵入を防御するため、道沿いの敷地は直線ではなく、ノコギリの歯のようにギザギザに区画されました。また、家の裏手には「背割排水」という下水路を通し、これを町の境とするなど、守りだけでなく人々が暮らしやすい、軍事・経済の要所としての町づくりを行いました。

松坂古地図(松阪市蔵)松坂古地図(松阪市蔵)

サンプル画像背割排水(旧長谷川邸)

サンプル画像ギザギザの町並み

有力商人の誘致

サンプル画像岐阜や安土で信長の町づくりを見ていた氏郷は、城下町の経済発展を図るため、「町中掟」を定め、楽市楽座を推進し、日野や伊勢大湊から有力な商人を誘致します。これにより、松阪にはたくさんの人々が集まり、江戸時代には、三井家、長谷川家、小津家など多くの豪商が活躍して、のちに豪商のまちと呼ばれる礎を築くのです。

しかし、入城してわずか2年の1590年、氏郷は、奥羽地方平定のため伊達正宗のいた会津42万石へ転封されます。1年余りで奥羽全体を平定した氏郷は、92万石の大大名となります。

これほど短期間に出世できた例はほとんど類がなく、氏郷がいかに優れていたかがうかがえます。

氏郷は、会津でも城の大改修と城下町の整備を行い、その地を「若松」と名付け、会津発展の基礎を築きます。

 

旧長谷川邸

武芸だけでなく一流の文化人

氏郷の軍は、非常に統制がとれ、強いことで有名でした。軍規を作り、守らない家臣は厳しく罰しましたが、一方で、家臣を大切にしました。知人へ宛てた手紙に、家臣をまとめるには、「知行を与えるだけでなく、情けをかけねばならぬ。知行と情けのどちらも大切」ということが書かれています。

また、勇猛な武将であっただけでなく、氏郷は、当代きっての文化人でもありました。特に茶の湯は、千利休の「利休七哲」といわれる高弟の中でも筆頭に挙げられるほど。

利休は、氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評しています。

氏郷は千家の大恩人

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千利休が秀吉の命で切腹させられた折、氏郷は、利休の次男・小庵を会津に預かり、秀吉の怒りが収まるのを待って小庵を許すよう秀吉に頼みます。3年後、小庵は許され、京都に戻り、やがて小庵の孫たちがそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家の三つの流派を起こし、現在まで続いています。
氏郷がいなかったら、千家の茶道はなかったかもしれません。
松坂城表門跡にある「松阪城跡」と書かれた石碑は、裏千家第15代家元・千宗室の揮毫によるもの。氏郷公と千家との深い絆がうかがえます。

氏郷が残した功績

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大出世をした氏郷でしたが、病に倒れ、1595年、40歳という若さで、京都でその生涯を閉じます。

しかし、氏郷が商業に力を入れて作った松阪はその後見事に開花し、「豪商のまち」といわれるほどに繁栄します。

氏郷は「松阪開府の祖」として今も人々に敬われ、「氏郷まつり」などの行事が行われています。

「氏郷まつり」は毎年秋、松坂城跡および中心市街地にて行われ、毎年たくさんの人が松阪を訪れています。

詳しくは氏郷まつりのページ<外部リンク>

氏郷まつりの写真・その1氏郷まつりの写真・その2

「松阪」と「松坂」

松阪は、明治22(1889)年の町制施行に際して、地名を「松坂」から「松阪」に改めたため、現在は「松阪」と書きますが、城の名称については、史跡名称に合わせて「松坂」を使用しています。



 

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