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豪商のまち 松阪

旧長谷川治郎兵衛家前の通りの写真

豪商のまち 松阪

松坂城を築いた氏郷は、城下の整備にも力を注ぎ、楽市楽座の開設や、伊勢街道を城の近くに引き寄せるなどして、商業の振興を図りました。江戸時代になると、「伊勢国」松阪はお伊勢参りの旅人が行き交う街道沿いの宿場町として、また商人の町として大きく発展。商人たちに多くの富をもたらしたのは、特産物の松阪木綿です。藍染め糸で織り上げた縞模様のデザインが「粋」を好む江戸で大ヒットし、日本一の大商人として名を馳せた三井グループの祖・三井高利をはじめ、小津、長谷川など多くの豪商が台頭しました。

氏郷の町づくり

氏郷は、松坂城築城と同時に、城下町の整備を行います。軍事の拠点となるだけでなく、経済の発展を目指して商工業に力を入れた町づくりを進めました。
松ヶ島城下を通っていた伊勢街道を松坂城下へと移動させ、街道と平行に職人町通りや、魚町通り、松坂城正面の大手通り、日野町を起点とする新町通り(後の和歌山街道)などを整備します。
そして、城のすぐ近くは武家地(殿町)とし、その外側に町屋を連ね、町屋の周囲には、松ヶ島城下から神社や寺社を移して、いざという時の守りの拠点となるよう配置しました。

伊勢国松坂古城之図の写真

伊勢国松坂古城之図
正保2年〜承応3年・1645〜1654年頃(国立公文書館)

のこぎり状の町並み

のこぎり状の町並みの画像

今も当時のまま残るギザギザの町並み

氏郷の町づくりの特徴の一つに、街道筋を含め、通りがのこぎりの歯のようにギザギザに屈折していることです。敵が一斉に攻めてこられないよう、防御のためといわれていますが、そうした町並みを見て他所から来た旅人が詠んだとされる歌があります。

「伊勢の松坂 いつ着(来)てみても 襞(ひだ=飛騨守である氏郷)のとりよで 襠(まち=町)悪し」

襞は袴の折り目、襠は袴の股の部分のことで、松阪はいつ来てもひだをとったようにギザギザで見通しが悪い町だという意味ですが、なかなか風刺が利いていて上手いですよね。
こうした町並みは現在も残っており、松阪ではよく見られます。

背割排水

背割排水の画像

背割排水(旧長谷川治郎兵衛家)

氏郷は、町屋の裏と裏の境目に下水路を通し、それを町の境目にしました。住民の生活をよく考えた仕組みで、背割下水とも言います。今でも雨水の排水路として一部残っており、見ることができます。

「町中掟」の制定と楽市楽座

石碑の画像

氏郷は、12カ条からなる「町中掟」を定め、町中での抜刀、けんかや口論などを禁止して町人を保護し、楽市楽座を進め、自由に商売をできるようにします。
松ヶ島の町人たちを町ごと移動させて本町、中町、魚町などに住まわせ、日野や伊勢大湊から有力な商人を誘致し、経済発展を図りました。
やがて日野からきた商人は日野町を、伊勢大湊からきた商人は湊町をつくっていきます。
こうした氏郷の経済政策は、江戸時代に入り結実します。

松阪の繁栄を支えた伊勢木綿

御朱印船の画像松阪の繁栄に欠かせなかったのが木綿です。
松阪には古来より、高い紡織の技術があり、紡織が盛んでした。
原料の綿が伝来すると、綿の栽培に必要な条件が揃っていた伊勢湾岸で綿の栽培が盛んになり、伊勢の綿がいちばんといわれるほど、良質の綿がとれるようになります。
農家には必ず機織り機があり、農閑期になると女性たちが木綿を織っていたのです。

そこへ、安南国(現ベトナム)との貿易に従事していた松阪の貿易商、角屋七郎兵衛が、安南国の「柳条布(りゅうじょうふ)」という、藍染めに柳のように細い縞の入った木綿布をもたらすと、藍の先染め糸を使った様々な縞柄が発展していったとされています。

藍染の縞柄の着物は、おしゃれに敏感な江戸っ子たちをとりこにしました。当時、江戸では、倹約令により華美な絹の着物を堂々と着られなくなっていたため、遠くから見ると無地にも見える藍染の縞柄模様が、粋な江戸っ子の好みにピタリとハマり、大流行しました。
質の良い伊勢木綿は人気が高く、特に縞柄を「松坂嶋(まつさかじま)」と呼んで、大評判になったのです。

歌川広重作の錦絵

歌川広重作
錦絵には松坂嶋の着物を着た女性が描かれている。

江戸で活躍した伊勢商人

伊勢商人たちは、伊勢木綿を江戸や大阪などで売るため、江戸に何軒も出店を持つようになります。特に日本橋大伝馬町に多く集まり、大伝馬町「一丁目には伊勢店ばかり」といわれるほどで、近江商人と並んで、江戸で大活躍をします。
しかし、生活は大変質素で、徹底した倹約で知られ、「宵越しの銭は持たぬ」などといわれた江戸っ子の気性とは正反対の倹約生活ぶりを見て、商売上手な近江商人と伊勢商人を揶揄して、「近江泥棒 伊勢乞食」などということばが生まれるほどでした。

江戸時代の松阪は、紀州藩の飛び地ということもあり、比較的武士が少なく、商人の多い町でした。江戸だけでなく、大坂や京都にも出店を持つ商人が多く、出店で稼いだお金とともに、三都市の文化や政治、経済の最新情報がいち早くもたらされました。
商家の主人は、江戸との行き来も多く、趣味や教養を高めるため、一流の文化人と交流しました。時には、彼らを伊勢神宮参拝に招待し、松阪の本宅に逗留させ、歌会や句会、茶会などを開いたそうです。そのため、江戸や上方の文化ともひと味違った商人文化が芽生え、松阪は豪商のまちとして知られるようになります。
松阪には今も豪商といわれた商人の暮らしぶりを垣間見ることができる建物が残っています。

伊勢出身の店が並んだ大伝馬町一丁目の様子が描かれた錦絵の画像

伊勢出身の店が並んだ大伝馬町一丁目の様子が描かれた錦絵(歌川広重 作)

旧長谷川治郎兵衛家

魚町一丁目の「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅です。
長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめました。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。

長谷川家の広大な屋敷構えは、その長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返し形成されたもので、近世から近代にかけて商家建築の変遷をたどることができます。

正面外観は建ちの低い、つし二階建てで、袖壁の上に立派な本うだつが上がっています。左手に表蔵を見ながら玄関をくぐると、奥に向かって通り土間が続き、奥に土蔵がさらに4棟、最も古い大蔵、左に米蔵、大蔵の右手に新蔵と西蔵が並んでいます。

旧長谷川家住宅 建物配置図の画像

旧長谷川家住宅 建物配置図

主屋正面の画像

主屋正面

表塀の写真

表塀

主屋 くど、通り土間の画像1

主屋 くど、通り土間の画像2

主屋 くど、通り土間

長谷川家には、建物群のみならず、創業以来大切に保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類及び商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されており、伊勢商人の繁栄の証を今に伝える貴重な文化遺産です。

大蔵の画像

大蔵

文書箱(紀州藩)の画像の1文書箱(紀州藩)の画像の2

文書箱(紀州藩)

千両箱の画像の1千両箱の画像の2

千両箱

大正座敷の画像の1

大正座敷の画像

大正座敷

離れの画像

離れ

離れの回遊式庭園の画像

離れの回遊式庭園

土蔵の裏手には、町境でもある背割排水が流れ、その奥には池を中心とした回遊式庭園が広がっています。ここは、以前、紀州藩勢州奉行所があった地で、明治初年に長谷川家が購入し、庭園の他に離れや茶室、四阿(あずまや)などをつくりました。

旧長谷川治郎兵衛家は、平成28年7月25日、国の重要文化財(建造物)に指定されました。
また、平成27年3月5日には、県の史跡及び名勝に指定されています。


蒲生氏郷が築いた 松坂城と町