北を流れる阪内川を防御線とした要害の地にあり、丘陵を切り通して、城郭の中核部の北丘と、城の鎮守神を祀った八幡宮のある南丘に分断。
北丘の最頂部に本丸を築き、そこを中心に東側にニノ丸、西側にきたい丸、南側に隠居丸を配置し、両丘の周囲を三ノ丸としています。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた配置は、渦郭式(かかくしき)と呼ばれるものです。
松坂古地図(松阪市蔵)
本丸は城郭の最頂部にあります。上下2段に分かれており、三層からなる天守がありました。天守と隣り合うように敵見櫓、対角の東角に金の間櫓があり、それぞれの櫓の間には多聞(たもん)が巡らされつながっていました。
このような天守と二基以上の櫓が連結している構造は「連立式天守」と呼ばれるもので、防備の上で最も厳重な構造を採用していました。
多聞とは、城郭の防備のため石垣の端いっぱいに建てられるもので、多聞櫓や渡り櫓ともいいます。
本丸下段には、南に太鼓櫓、東に月見櫓、北に遠見櫓を構え、同じように多聞で連結されていました。
二ノ丸へ通じる大手筋には表ニノ門跡、搦手筋には裏ニノ門跡があります。
多聞跡の石垣があり、ぐるりと囲まれていたのがわかります。
手前の大きな石は石棺の蓋。
ひときわ規模の大きな2層の櫓で、その名の通り金箔を貼った「金の間」がありました。
本丸下段跡から本丸上段を望む
昭和49年、梶井基次郎文学碑が建立され、松阪を舞台にした小説『城のある町にて』の一文が刻まれています。学生の頃、この町に嫁いだ姉のもとで一夏を過ごしたことがモチーフになって作品が生まれました。代表作『檸檬』にちなみ、檸檬の木も植えられています。
大林省軒顕彰碑
幕末・明治期の斎藤拙堂門の漢学者。大正6年建立。
本丸の西にあり、曲輪の名称は、松坂城を完成させたといわれる3人目の城主・古田重勝の子どもの幼名「稀代丸」にちなみます。東西南北の各角に櫓が配置されています。
本丸の東に位置し、南角に無名の櫓を構え、二ノ丸御殿がありました。
二ノ丸御殿跡
江戸末期から明治期の俳人。松阪の俳句結社「一葉庵」庵主。
松阪もめん産業振興のため松阪木綿(株)を創設した実業家。
松阪水力電気、松阪軽便鉄道開業にも尽力。昭和9年建立。
明治期の斎藤拙堂門の漢学者。
本丸の南にあり、2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵がありました。後に米蔵は移築したとされ、御城番屋敷の敷地にある土蔵がそれといわれています。
現在、隠居丸跡には、松阪出身の江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」があります。魚町1丁目にあった本居宣長旧宅を保存しようという声が高まり、明治42年、隠居丸跡地に移築され、隣には管理事務所として桜松閣(おうしょうかく)が建設されました。本居宣長旧宅と同宅跡は、昭和28年に国指定特別史跡に指定されました。
城の中核をなす北丘と八幡宮のある南丘の周囲一帯を指し、外側は堀と土居で囲まれていました。
城ができた当初は身分の高い家臣の屋敷がありました。紀州藩統治下の江戸時代に侍屋敷は城外へ移され、役所や馬屋などが置かれましたが、大半は空き地で畑地として使用されていました。その後、江戸時代終わり頃の1863年に城を警護する役職の武士の住まいである御城番屋敷が建てられました。