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松阪物語~近代の著名人~

松阪物語~近代の著名人~

松浦武四郎〈まつうらたけしろう〉(1818年~1888年)

松浦武四郎肖像画

松浦武四郎肖像画

 松浦武四郎は、文化15年(1818)に一志郡須川村〈すがわらむら〉(現在の松阪市小野江〈おのえ〉町)で、紀州藩の地士〈じし〉を務める松浦家の第四子として生まれました。その誕生の地(市指定史跡)は、伊勢神宮へと続く伊勢街道に沿っており、江戸時代に全国各地からやって来るおかげ参りの旅人でにぎわいました。

 武四郎は7歳の時、近くのお寺で読み書きを習うと、各地の名所を図入りで紹介した『名所図会〈めいしょずえ〉』を愛読します。13歳の頃には、「文政のおかげ参り」が起こり、1年間で約500万人が伊勢神宮を目指して全国各地から押し寄せたとされます。家の前を行き交う旅人に大きな刺激を受けた武四郎は、16歳で家を飛び出して江戸へ旅し、17歳からは日本全国をめぐり歩きました。19歳で四国八十八ヶ所の霊場をめぐり、20歳で九州へ渡ると、長崎で出家して「文桂〈ぶんけい〉」という名の僧侶となり、平戸では住職を務め、壱岐〈いき〉・対馬〈つしま〉まで渡ります。武四郎の眼は、その先にある朝鮮、さらには中国・インドへと向けられましたが、鎖国のため朝鮮へ渡ることはできず、長崎でロシアが蝦夷地〈えぞち〉(今の北海道)を狙っていることを知ると、まだ詳しい様子がわかっていなかった蝦夷地の探査を決意します。

 そして、28歳から41歳にかけて6度も蝦夷地・千島〈ちしま〉列島・樺太〈からふと〉の探査を行い、先住の民であるアイヌ民族と出会うと、アイヌの人びとに案内をしてもらいながら道なき道を歩きました。6回の探査の記録は151冊にまとめられるとともに、9,800にものぼるアイヌ語地名を収めた大型の蝦夷地地図の出版も行いました。また、アイヌ文化のミニ百科事典ともいえる『蝦夷漫画』や、アイヌの人びとの姿をありのままに記録した『近世蝦夷人物誌』を著すなどして、アイヌ民族への正しい理解を求め、アイヌの人びとの生命、文化を守ることを幕府に訴えます。そのため、松前藩から調査の妨害や命を狙われることになりましたが、武四郎は決してその姿勢を崩すことなく、信念を貫きました。

 幕末には吉田松陰〈よしだしょういん〉など数多くの志士たちとも交流し、蝦夷地に最も詳しい人物との評価を得ました。やがて、時代は明治維新を迎えると、大久保利通〈おおくぼとしみち〉の推挙により明治政府へと登用され、開拓使〈かいたくし〉では長官、次官に次ぐ判官〈はんがん〉にまで任じられます。明治2年(1869)、蝦夷地に替わる名称の撰定に携わった武四郎は、「日本の北にあり、アイヌの人びとが古くから暮らす広い大地」という思いを込めて「北加伊道」と提案し、現在の「北海道」の名称が生まれました。

 武四郎が目指したのはアイヌの人びとが安心して暮らすことができる北海道でしたが、アイヌ民族への政策をめぐって反発し、政府を辞します。野に下った武四郎は、「馬角斎〈ばかくさい〉」と号し、各地を旅して古物を収集したほか、天神信仰にも篤く〈あつく〉、菅原道真〈すがわらのみちざね〉にゆかりの深い25ヶ所の天満宮へ賛同者を募って神鏡を奉納し、石標を建てました。また、68歳から70歳にかけて、三重と奈良の県境にぞびえる大台ケ原へ登り、70歳で富士山に登るなど、老いてなお旅の心は衰えませんでした。

 70歳を前にして足腰の衰えを感じていた武四郎は、これまでの旅を通して出会った全国各地の人びとに頼んで、その土地その土地の古社寺などで使われた古材を送ってもらいます。その古材を用いて畳一畳の書斎「一畳敷〈いちじょうじき〉」(国際基督教〈きりすときょう〉大学構内にある泰山荘〈たいざんそう〉に現存)を自宅に建て、これまでの旅の人生を懐かしげに振り返りましたが、明治21年(1888)に71歳でこの世を去りました。

松浦武四郎記念館

松浦武四郎記念館 松浦武四郎記記念館内観

松浦武四郎記念館

 松浦武四郎記念館は、武四郎の貴重な資料を後世に残し、紹介する目的で平成6年に開館しました。館蔵資料は、武四郎が著した日誌、地図、書簡、絵画などが中心ですが、武四郎が蝦夷地の探査で持ち帰ったアイヌ民族資料も収蔵しており、現在1,505点の資料が国の重要文化財に指定されています。展示室では2ヶ月に1度展示資料を入れ替えている他、充実した映像コーナーや武四郎冒険すごろくクイズなどもあり、多彩な分野で活躍した武四郎の姿を紹介しています。

 

松浦武四郎生誕地

松浦武四郎誕生地


 また、松浦武四郎記念館から徒歩約7分のところに、松阪市の史跡に指定された「松浦武四郎誕生地」があり、武四郎のふるさとのわが家が、かつての姿で残されています。家の前を通る道は、江戸と京を結ぶ東海道が四日市の日永〈ひなが〉で分岐し、伊勢神宮へとつながる「伊勢街道」であり、武四郎の誕生地がある小野江町から、南に伊勢街道を進んだ松阪市中心部にかけての区間は、社団法人日本ウォーキング協会が選定した「美しい日本の歩きたくなる道 500選」に選ばれており、市場庄〈いちばしょう〉町では格子戸が美しい町並みを目にすることができます。

武四郎を縁とした アイヌの人びととの交流

 武四郎が行った6度に及ぶ蝦夷地調査は、アイヌの人びとの協力がなくては、なし遂げられるものではありませんでした。武四郎は、寝食をともにした探査で、アイヌの人びとと深く交流し、アイヌ文化を愛した、異文化理解・多文化共生の先覚者でもありました。

 松阪市では、武四郎が2月6日に生まれ、2月10日に亡くなったことにちなんで、武四郎の功績をたたえるとともに、武四郎が深く交流したアイヌの人びとの伝統文化に触れていただくことで、アイヌ文化への理解を深めてもらおうと、毎年2月の最終日曜日に「武四郎まつり」を開催しています。武四郎まつりでは、北海道各地で活動されているアイヌ民族文化保存会が、国指定重要無形民族文化財に指定されたアイヌ古式舞踊を披露するなど、武四郎をきっかけとした交流が今も続いています。

茶王 大谷嘉兵衛〈おおたにかへえ〉(1844年~1933年)

大谷嘉兵衛

大谷嘉兵衛肖像画

 大谷嘉兵衛は弘化元年(1844)12月22日、伊勢国飯高郡谷野〈たんの〉村(現在の松阪市飯高町宮本)に、父・吉兵衛、母・つなの4男1女の3男として生まれました。19歳で横浜の茶商小倉藤兵衛へ奉公した後、居留地のスミス・ベーカー商会の製茶買い入れ方として雇われ、海外との取引責任者となりました。
 明治5年(1872)には、粗製の防止と品質の改良のため、製茶改良会社を設立し、輸出製茶の品質向上に尽くし、明治17年(1884)、農商務省を説いて全国の茶産地に茶業組合を設立、また全国組合として中央茶業本部を創設しました。
 明治31年(1898)アメリカは日本茶に対し、輸出茶の原価に相当するほど厳しい関税を課してきました。そこで翌年(1899)、全国茶業者大会において茶関税に対する対策を協議し、嘉兵衛は撤廃運動のために渡米を決意し、アメリカ・フィラデルフィアでの「万国商業大会」に日本を代表して参加し、関税の廃止を主張し続けました。そして、アメリカの財務長官や農務長官を訪問し茶関税撤廃に努力しつづけた結果、大統領ウィリアム・マッキンリーとの会見を許されることとなり、明治35年(1902)ついに関税が撤廃され、日本茶の輸出は活気を呈〈てい〉することになりました。同40年(1907)にはその社会的功績と多額納税の功績により貴族院議員に選ばれ、勲三等に叙せられています。
 その後、茶業組合中央会議所会頭、日本紅茶株式会社を設立し社長に就任するなど、その生涯を日本茶一筋に捧げますが、昭和8年(1933)2月、横浜で89歳の生涯を終えました。

大谷橋架橋

 嘉兵衛の故郷は、東西に櫛田川が流れ、両岸を結ぶ橋のほとんどは低い丸木の一本橋でした。そのため大雨のたびに橋が落ち、人びとの生活は大変苦しいものになり、子どもたちは対岸へ通学することもかなわず、長い間人びとは、じょうぶな橋を架けてほしいと願ってきました。
 故郷を愛してやまない嘉兵衛は、経費の大部分を出資し、早速工事に着手することとしました。明治29年(1896)9月に近代的な高架の橋が落成し、「大谷橋〈おおたにばし〉」と命名されました。この橋によって、増水時にも交通遮断されることなく、子どもたちも安心して通学できるようになりました。その後、架け替えが繰り返され、現在の大谷橋は4代目になります。

大谷橋

大谷橋

お熊が池(南湖〈なんこ〉)

 嘉兵衛は、故郷の南方の山頂の窪地にある、お熊が池を尊崇し、これを「南湖」と呼び、生涯にわたって精神のよりどころ、心の故郷としていました。この池は、昔から雨乞いの池として有名で、池の中には弁財天が祀られ、毎年祭礼が行われています。今では、池のほとりまで舗装された林道が延び、気軽に訪れることができます。

お熊が池

お熊が池

松阪市飯南茶業伝承館

 茶業振興、茶製造技術と歴史の伝承を目的に平成9年度に完成した茶業伝承館は、実際に製茶できる35キロラインの製茶工場を併設している。展示室には、手揉み茶用の「ほいろ」をはじめ、お茶に関する様々な道具を展示し、予約をすれば手揉み茶体験もできます。

松阪市飯南茶業伝承館

松阪市飯南茶業伝承館

東畑精一〈とうはたせいいち〉(1899年~1983年)

 大正・昭和という激動の時代に、農業の近代化、戦後の農業経済の立て直しなど、農政学者として多くの功績を残した東畑精一は、明治32年(1899)、一志郡豊地村井之上〈とよちむらいのうえ〉(現在の松阪市嬉野井之上町〈うれしのいのうえ〉)の地主であった東畑家の長男に生まれました。現存する旧宅は、すでに人手に渡っていますが、旧家の屋敷らしい面影が残されています。その居間には、祖母の弟にあたる矢土錦山〈やづちきんざん〉の書が今も掛けられています。


 幼少の頃は、同級生たちと田園山林を走りまわり、雀取りなどに夢中だったようです。精一は、津市の県立第一中学校に進学し、それから第八高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)農学部に入学しました。その後、東京帝国大学で助教授として10年余、教授として25年余にわたり、農政学と農業経済学を研究し、後進の育成にあたりました。


 近代日本における農業経済学の基礎をつくり、日本の農業を経済的対象としてとりあげ、初めて国民経済の一環として体系づけたといえます。また、海外留学中にはボン大学で、世界的な経済学者であるシュンペーターに師事し、最先端の経済学について学びました。当時の日本の経済学に、世界の経済学の主流を送りこみ、日本での近代経済学を確立しました戦後すぐの吉田茂内閣組閣時に、ぜひとも農林大臣にと首相自ら声をかけたというエピソードは有名です。政治の表舞台には立ちませんでしたが、米価審議会・経済審議会・税制調査会など、各種政府諮問機関の委員・会長を歴任しました。

 昭和45年(1970)には、文化功労者に選ばれ、同50年(1975)には勲一等旭日大綬章、55年(1980)には文化勲章を受章しています。そして、58年(1983)、84歳で永眠しまた。地元への関わりとしては、三重県社会経済研究センターの設立などがあげられ、嬉野川北町〈うれしのかわぎた〉の三重県農業研究所には、本人から寄贈された「東畑記念館」が建てられています。そして、多くの著書とともに生前の業績や戦後の農政などを知ることのできる貴重な資料など約9,000点が、三重県立図書館に「東畑文庫」として大切に保管されています。

東畑精一

東畑精一

 

小津 安二郎〈おづやすじろう〉(1903年~1963年)


 独創的な映画表現が世界的に高く評価されている映画監督・小津安二郎ですが、彼は青年期の一時期を松阪で過ごしています。安二郎は明治36年(1903)、東京・深川の肥料問屋「湯浅屋〈ゆあさや〉」東京店支配人の二男として生まれましたが、父が松阪の小津家本家の使用人ということもあって、大正2年(1913)9歳の時に、一家は松阪へ移り住み、安二郎は松阪町立第二尋常小学校の4年に転入しています。勉強もよくでき、都会育ちの転校生である彼は、よく目立ったといわれています。
 その後、県立宇治山田中学校を卒業し、飯高町の宮前〈みやまえ〉尋常小学校の代用教員となり、大正12年20歳で父の住む東京に帰るまでの10年間、この松阪で過ごしています。松阪の住所は、現在の愛宕町〈あたごまち〉の三角公園近くでした。

 また、この頃から、映画に夢中になり、大正9年(1920)にはアメリカ映画を見に名古屋まで行ったこともありました。後の昭和26年(1951)に、シナリオ作家の野田高梧氏(のだこうご)とともに松阪を訪れた際、当時愛宕町にあった映画館「神楽座〈かぐらざ〉」の前で、「もし、この小屋がなかったら、僕は映画監督になっていなかったんですよ」と述懐しています。


 東京に戻った彼は松竹キネマ蒲田撮影所に入所し、監督となってからは低いカメラアングルによる厳格な形式美の中に真の人間性を独特の手法で描き、「生れてはみたけれど」「一人息子」「父ありき」「晩春」「麦秋」「東京物語」「彼岸花〈ひがんばな〉」「秋刀魚〈さんま〉の味」など、日本映画史上にさん然と輝く名作を残し、昭和37年(1962)に映画界初の芸術院会員となっています。これらの作品群はその優れた日本的表現ゆえに、逆に海外では評価されることはないだろうと考えられ、国際映画祭にはほとんど出品されませんでした。しかし、近年になってその評価が内外でとみに高まり、現在では溝口健二〈みぞぐちあきら〉、黒澤明〈くろさわあきら〉らと並んで日本を代表する世界的映画作家として高い評価を得ています。

小津安二郎青春のまち松阪」もご覧ください。

小津安二郎

小津安二郎(提供:竹松)

松阪物語

2020年4月編集

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