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松阪物語~市街地の豪商たち~

松阪物語~市街地の豪商たち~

国学者 本居宣長〈もとおり のりなが〉(1730年~1801年)

 

本居宣長肖像画

本居宣長六十一歳自画自賛像(所蔵 本居宣長記念館)

 江戸時代の松坂は、日本の経済の一翼を担う松阪商人の本拠地として、また伊勢の神宮へ向かう旅人が西から東から集まる街道の町として、とても耀いていました。この町から18世紀最高の日本古典研究家・本居宣長は、「国学〈こくがく〉」という新しい学問を全国に向けて発信したのです。
 本居宣長は、享保15年(1730)、松坂の小津〈おづ〉家に生まれました。父は小津定利〈おづ さだとし〉。江戸店持ち商人として木綿を商い繁栄した家でしたが、読書を好んだ宣長は、商売をやめて医者の道を選びます。京都で5年間の修行を終えて28歳の時に魚町〈うおまち〉の自宅に帰り、以後72歳で亡くなるまで、昼間は医者を、夜には町の人々に古典を講釈し、研究をするという生活が続きました。
 宣長は、学問をする器械のような人です。本居宣長記念館に展示される原稿や日記を見るとよくわかります。最初から最後まで筆跡が変わりません。書き漏らしや、誤字や脱字もほとんどありません。とても端正で読みやすい印刷されたような文字です。日本や中国の古典や言葉、歌など頭の中の膨大なデータベースをもとに、机に向かったらとてつもない集中力で研究をしました。
 そんな宣長でも勉強に疲れ、気分転換のために鳴らしたのが「柱掛鈴〈はしらかけすず〉」でした。さやさやと鳴る鈴を掛けた四畳半の書斎には「鈴屋〈すずのや〉」と名前が付けられました。今も松阪の町のあちこちで鈴の絵やモニュメント、また「ベル」という名前を目にするのは、鈴の音に心を癒やし研究を続けた宣長を誇りに思う町の人たちの気持ちからなのです。

鈴屋

国指定特別史跡 本居宣長旧宅(鈴屋)

 皆さんは「もののあはれ」というすてきな響きの言葉をご存じですか。
 世界的な評価を受けている映画監督・小津安二郎〈おづ やすじろう〉(1903~63)は、自分の映画のテーマは「もののあはれ」だといっています。実はこの言葉は、宣長が日本人の繊細な心や美意識を表現するのに使ったのが最初なのです。宣長が、紫式部〈むらさきしきぶ〉の『源氏物語〈げんじものがたり〉』は、「もののあはれを知るの一言に尽きる」のだと主張したことで、それまでの『源氏物語』評価は一変し、日本を代表する古典となったのです。ちなみに小津安二郎は、宣長の生まれた小津家とも関わりのある松阪商人の末裔〈まつえい〉で、青少年期をこの町で過ごしました。

 「もののあはれ」という言葉の発見に象徴されるように、宣長は生涯をかけて、日本古典の中から日本人の心を探し続けました。中でも現存最古の歴史書『古事記〈こじき〉』の解読は、半生を費やす大事業となりました。この本の中に、日本人のものの考え方や心情を解く鍵があると確信した宣長は、34歳の夏の夜、参宮の途中、松阪日野町〈ひのまち〉の新上屋〈しんじょうや〉に泊まった賀茂真淵〈かものまぶち〉とのたった一夜の出会い(松坂の一夜〈まつさかのひとよ〉)を契機として、その指導を受けながら研究に着手したのです。
 江戸の真淵と松坂の宣長。遠く400kmも離れた師弟が手紙で質疑応答をするという通信教育が可能となったのも、また研究に必要なたくさんの資料を居ながらにして入手できたのも、この町が情報の集積地であり、旅人が往来する場所だったからに他なりません。

 心力を尽くした『古事記伝〈こじきでん〉』44冊が書き終わったのは、宣長69歳の夏でした。執筆開始からすでに35年がたっていました。それから3年後、享和元年(1801)年9月29日、宣長は72歳の生涯を閉じました。『遺言書〈ゆいごんしょ〉』の指示により、山室山に奥墓〈おくつき〉が、また菩提寺樹敬寺〈じゅきょうじ〉にも墓が造られました。12歳から亡くなるまで住んでいた魚町の家は、現在松坂城跡に移築されて公開され、その隣には、宣長の遺墨〈いぼく〉・遺品〈いひん〉など約16,000点(内、国指定重要文化財1949点)を保存し展示している本居宣長記念館があります。

本居宣長記念館

本居宣長記念館

角屋七郎兵衛〈かどやしちろべえ〉(1610年~1672年)

 角屋家は伊勢の大湊〈おおみなと〉から蒲生氏郷に招かれて松坂に移り住んだ海運業者で、その一族が住んだところが現在の湊町〈みなとまち〉です。
 この角屋の先祖は、天正10年(1582)6月の「本能寺の変」の時、泉州堺〈さかい〉から伊勢の白子〈しろこ〉(鈴鹿市)まで危難を避けてたどり着いた徳川家康を、その持ち船で三河国〈みかわのくに〉まで送り届けたことがあり、後に天下をとった家康から「領国内の港への出入自由、諸役免除〈しょやくめんじょ〉」の御朱印状を与えられました。
 松坂で生まれた次男の七郎兵衛栄吉は、成人するとこの特権を生かして海外貿易家になることを決意し、寛永8年(1631)22歳の時に安南〈あんなん〉国(今のベトナム)に渡り、現在も日本町の面影を残すフェイフォ(現在のホイアン市)に居を構えました。そして、現地の娘を妻に迎えて、いろいろな文物を故国にもたらしています。また、七郎兵衛は松坂の来迎寺・岡寺・龍泉寺や伊勢神宮などにも、金銭を寄進しています。
 ところが、間もなく日本では鎖国令〈さこくれい〉が出され、帰国するかどうかの決断を迫られましたが、七郎兵衛は家族のいるフェイフォの地に残る道を選びました。その後、晩年にはフェイフォの日本町の頭領になり、つり鐘や 山号〈さんごう〉の額などを郷里から取り寄せ、その地に松本寺という自分の寺を建てました。
 寛文12年(1672)、異郷で63歳の生涯を終えた彼は、遺言どおり松本寺に葬られ、妻の妙泰〈みょうたい〉が日本に宛てた手紙には、朝夕に香花を供え菩提を弔っている旨が、見事な筆づかいでしたためられており、300年以上も前の国際結婚における美談として、今なお心を打つものがあります。なお、松阪の来迎寺には七郎兵衛の供養塔や一族の墓も残されています。
 七郎兵衛が生前故国にもたらした文物の中には、「柳条布〈りょうじょうふ〉」ともいわれた「南方裂〈なんぽうぎれ〉」があります。その斬新なデザインは松阪商人の才覚で木綿織りに取り入れられたともいわれ、長い間、江戸で大流行し、太物〈ふともの〉(木綿)を扱う江戸店〈えどだな〉の目玉商品となりました。

角屋朱印船

角屋朱印船

三井 高利〈みつい たかとし〉(1622年~1694年)

三井高利夫妻

三井高利福夫妻肖像画(所蔵 松阪市)

 松坂で金融業を営みながら、江戸店を持つために資金蓄積に励んでいた高利が、江戸本町一丁目に間口九尺(2m70cm)の「越後屋〈えちごや〉」を開店したのは、延宝元年(1673)高利52歳の時でした。それから10年後には江戸駿河町〈するがちょう〉に大店〈おおだな〉を構え、さらに4年後には、商人の最高の名誉である幕府御用達〈ばくふごようたし〉に加えられるまでになりました。
 高利と息子達の商法は画期的なもので、当時一般の呉服屋がやっていた見世物商〈みせものあきない〉(あらかじめ得意先を回って注文を聞き、後で品物を届ける方法)や屋敷売〈やしきうり〉(商品を得意先に持参して売る方法)に対し、店先売〈たなさきうり〉といって今日行われているような店頭販売を行い、掛売りが通例であった当時に、「現金掛け値なし」の看板を掲げました。

 また、呉服は一反が売単位であったものを、客の求めにより切り売りに応じ、仕立屋に持参して着物や羽織りを作らせた時代に、急ぎの客には職人が手分けしてその場で仕立てて着せて帰すことまでしています。こうした独創的な工夫の中には、店前に雨傘を備えておいて夕立などの時には客に自由に使わせ、たくまずして江戸中に「越後屋」と書かれた番傘が広がるといったユニークな移動広告も考え出しました。その時の模様は「降り出すと江戸へ広がる駿河町」と江戸川柳〈えどせんりゅう〉にもうたわれています。
 従来の慣習にとらわれないこうした高利と息子達の商法は江戸庶民の間で爆発的な人気を博し、その繁栄ぶりは大変なもので、井原西鶴〈いはらさいかく〉の「日本永代蔵」には、越後屋三井を評して「大商人の手本なるべし」と称賛されています。
 「越後屋」はのちに「三越〈みつこし〉」となり、金融や貿易部門等全体が三井グループとなって日本経済の中で大きな位置を占め、松阪市本町〈ほんまち〉にある三井家発祥地はその歴史の原点をしのばせています。


 三井家発祥地

三井家発祥地

小津清左衛門家〈おづせいざえもんけ〉

旧小津清左衛門家

旧小津清左衛門家の内部

 江戸時代の松坂には、小津清左衛門家、小津与右衛門家〈おづよえもんけ〉、小津茂右衛門家〈おづもえもんけ〉のように、『小津五十党』と称されるほど小津姓を名乗る商人がたくさんいました。中でも小津清左衛門長弘〈ながひろ〉は、寛永20年(1643)に江戸大伝馬町〈おおでんまちょう〉草分けの「佐久間善八〈さくまぜんぱち〉紙店」に奉公したのち、承応2年(1653)に同郷の木綿商小津三郎右衛門道休〈どうきゅう〉(本居宣長の曽祖父)の資金援助と小津屋を名乗ることを許されて紙問屋を開業しました。紙の時代といわれた元禄文化の波に乗った清左衛門は傍系であるにもかかわらず、その人物の実力を認められて小津党の長老となり、江戸では紙問屋40余店を束ねるほか、木綿問屋の経営にも乗り出しています。
 小津清左衛門家の実力を示すものとして、明治維新の際に商人に割当てらえた御用金をみると、総額86万両の内訳の上位から、三井五家〈みついごけ〉で30万両、鹿島一統〈かしまいっとう〉15万両、小津清左衛門6万両の順となっています。
 明治以降は、銀行・紡績工場などを設立して多角経営に乗り出しますが、関東大震災後の金融恐慌などの難局を乗り切るため、本来の紙問屋に復し、現在も創業以来の地で小津産業株式会社として営業を続けています。本社ビル内には、小津和紙・小津史料館・小津和紙照覧などが開設されています。
 松阪市では、平成3年度と5年度に本町の旧小津邸を購入し、平成4年度から5ヵ年計画でその内部の復元に取り掛かり、平成8年10月から「松阪商人の館」として一般に公開されており、当時の豪商ぶりをうかがい知ることができます。(平成31年4月、「旧小津清左衛門家」に名称変更)。

長谷川治郎兵衛家〈はせがわじろべえけ〉

旧長谷川治郎兵衛家

旧長谷川治郎兵衛家

 長谷川家が江戸大伝馬町〈おおでんまちょう〉に松阪木綿の店「丹波屋〈たんばや〉」を開いたのは、延宝3年(1675)3代政幸〈まさゆき〉の時です。その2年前の延宝元年には三井高利も江戸へ店を出していますが、この頃から江戸店をもつことがひとつの気運となり、多くの松阪商人が相次いで江戸の日本橋〈にほんばし〉界隈へ進出しています。

 政幸は江戸進出にあたり、三井高利のように斬新な商法は好まず、みんなが地道に儲かる方法を考え、仲間とともに伊勢地方の木綿の買い付けを専門に行うための勢州木綿買次問屋組合〈せいしゅうもめんかいつぎどんやくみあい〉を設立して、大伝馬町における松阪商人の結束を目指しました。
 大伝馬町1丁目の木綿問屋街は江戸中期には74軒を数えましたが、その後、時代とともに集約化が進み、天明年間(1780年代)には20軒となり、この数は幕末までほぼ維持されることになります。長谷川家がその4分の1に当たる5店を経営したことは特筆に値します。
 ところで、紀伊国屋文左衛門〈きのくにやぶんざえもん〉(通称紀文〈きぶん〉)や奈良屋茂左衛門〈ならやもざえもん〉(通称奈良茂〈ならも〉)が巨万の富を得て、遊里で節分の豆の代わりに小判をまいたとか、江戸中の初がつおを買い占めた、といった逸話が残されています。奈良茂が正徳4年(1714)に没した時に残した資産は13万両余ともいわれますが、その後、両家とも長くは続かなかったといいます。一方、長谷川家は質素倹約を家訓とし、堅実な営業を続けることで寛政4年(1792)には純資産が15万両に達し、現代に至るまで操業を続けるなど、あまりにも対照的な姿が印象的です。


 松阪市魚町にある長谷川家の本宅は平成25年に市に寄贈され、主屋の格子、幕板(霧よけ)、うだつの上がった屋根や黒漆喰の塗られた5つの土蔵など、商家の隆盛の変遷がよく表れている建物群は、平成28年7月25日に、国の重要文化財に指定されました。(指定名称は、「旧長谷川家住宅」)江戸時代における繁栄ぶりをしのばせるかのように、今も堂々たる威容をみせています。。(平成31年4月、「旧長谷川治郎兵衛家」に名称変更)。

松阪物語

2020年4月編集

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