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松阪物語~商都松阪の基礎を築いた~

松阪物語~商都松阪の基礎を築いた~

北畠氏〈きたばたけし〉(伊勢国司〈いせこくし〉)

 北畠氏は、村上源氏〈むらかみげんじ〉の一流であり、『神皇正統記〈じんのうしょうとうき〉』で有名な北畠親房〈ちかふさ〉は、南北朝時代にあって後醍醐天皇〈ごだいご〉の信任も厚く、南朝方の中心的存在として、伊勢地方の在地土壌を掌握し、この地に南朝方の拠点を形成しました。
 南朝から伊勢国司に任じられたその子顕能〈あきよし〉は、一志郡多気〈たげ〉(津市美杉町上多気〈かみたげ〉)に本拠を構え、その勢力は伊勢、伊賀、志摩、熊野から大和の一部にまで及びました。以後、南伊勢地域は200余年にわたって北畠氏が統治する国となります。
 顕能の孫・満雅〈みつまさ〉は、応永21年(1414)、天皇家の継承問題に対する室町幕府の違約を責めて挙兵、翌22年(1415)阿坂城〈あざかじょう〉を拠点に幕府軍と激闘をしています。
 この時、阿坂城は幕府軍の兵糧攻めにあい、水不足に悩んだ北畠軍は白米を馬の背に流して水が豊富にあるかのようにみせたという白米伝説を残しています。
 以来、阿坂城は別名「白米城〈はくまいじょう〉」と呼ばれるようになりました。しかし、阿坂城は落城、北畠軍はその後も抵抗を続けますが、永享2年(1430)に至って幕府との間に和議が調い、その後140余年、南伊勢は比較的平穏な時期を過ごします。
 その後、戦国の世へと移り変わり、永禄12年(1569)に織田信長が大挙して伊勢国に侵攻、これを迎え撃ったの   が剣聖・塚原ト伝〈つかはらぼくでん〉から一の太刀を伝授された剣豪大名として名高い北畠具教〈とものり〉でした。文武に秀でた武将と評された具教は、大河内城〈おかわちじょう〉に主力を集め、5万ともいわれる織田軍を相手に50日余りにわたって激戦を繰り広げました。

 しかし、圧倒的な織田軍の前に、信長の実子・茶箋丸〈ちゃせんまる〉(のちの織田信雄〈のぶかつ〉)を北畠家の養子として家督を継がせることを条件とした和議に応じざるを得ず、ついに織田の軍門に降ることとなりました。そして、天正4年(1576)、信長の謀略により旧家臣の襲撃を受け、具教は49歳で自刃して果てることとなり、ここに名族北畠氏は滅亡します。
 古戦場ともいうべき阿坂城跡、大河内城跡がそうした北畠氏の栄枯盛衰を物語るかのように、今もひっそりとした、たたずまいを見せています。

阿坂城跡

阿坂城後(白米城跡)山頂に立つ顕彰碑

国指定史跡 阿坂城跡〈あざかじょうあと〉(白米城跡〈はくまいじょうあと〉)

 松阪市の北部に位置する標高310mの頂上にある阿坂城跡は、南と北の2つの曲輪〈くるわ〉に分かれています。南の部分が白米城跡、北の部分が椎之木城跡〈しいのきじょうあと〉とも呼ばれています。椎之木城跡は、幅40m~70m、長さ150mにも及ぶ大きなもので、こちらの方が阿坂城の中心になっていたようで、台状地を巡って堀切り、土塁などが配されています。この地をめぐっては何度か激戦が展開されました。

 そのひとつが応永22年(1415)、北畠満雅〈みつまさ〉が北朝の足利軍(室町幕府)5万の大軍を迎えて阿坂城に立て篭った戦いです。この時、幕府軍の兵糧攻めにあい、水不足に悩んだ北畠軍が、水にみせかけた米を馬の背に流して水が豊富にあるように思わせたという話が伝えられており、「白米城」と呼ばれる所以となっています。

 また、永禄12年(1569)に、全国統一をめざす織田信長が伊勢に侵攻した際の戦いは、信長軍の木下藤吉郎〈きのしたとうきちろう〉(のちの豊臣秀吉)が矢を受けて負傷するほどの苦戦となりましたが、城内に裏切る者があり、ついに落城したと伝えられています。

 現在は国指定史跡であり、恰好のハイキングコースとしても人気です。白米城跡には顕彰碑が建立されています。

阿坂城跡看板

阿坂城後(白米城跡)説明看板

県指定史跡 大河内城跡〈おかわちじょうあと〉

 標高110m余りの丘陵突端部一帯、300m四方の範囲内に築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷がめぐって自然に要害の地を形成しています。城の縄張りは本丸を中心に北を大手口〈おおてぐち〉、南を搦手門〈からめてもん〉とし、西に西ノ丸、東に二ノ丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切や台状地が残っています。
 本城は応永年間、伊勢国司北畠満雅により築城され、弟・顕雅〈あきまさ〉が入城して、その子孫は代々「大河内御所〈おかわちごしょ〉」を称しました。
 永禄12年(1569)8月、本城をめぐって北畠具教〈とものり〉軍と織田信長軍が敵対し50日にもおよぶ籠城戦に苦しみましたが、信長の次男・茶箋丸〈ちゃせんまる〉(のちの信雄〈のぶかつ〉)に北畠の家督を譲ることで和睦が成立しています。この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と賞賛されましたが、天正3年(1575)には北畠信雄により解体されました。

大河内城跡

大河内城跡 本丸跡に立つ「大河内城址碑」他2碑

蒲生 氏郷〈がもう うじさと〉(1556年~1595年)

蒲生氏郷

「蒲生氏郷画像」 所蔵 愛宕山龍泉寺(松阪市愛宕町)

 蒲生氏郷は弘治2年(1556)現在の滋賀県蒲生郡日野町で、六角氏〈ろっかくし〉の有力武将・蒲生賢秀〈かたひで〉の嫡男として生まれました。永禄11年(1568)、織田信長の南近江への侵攻に際して、蒲生賢秀は信長に降ります。その直後、氏郷(幼名・鶴千代〈つるちよ〉)は人質として信長に仕えます。信長は一目で鶴千代の非凡さを見抜き、翌12年の大河内城攻めで初陣を飾らせ、娘・冬姫〈ふゆひめ〉を氏郷に嫁がせて若年ながら武将の列に加えたといわれています。当時、文武兼備の武将として有名な稲葉一鉄〈いなばいってつ〉は「この子の行く末は百万の将たるべし」と賞賛したと伝えられています。
 天正12年(1584)羽柴秀吉の命により南伊勢12万石の領主として松ヶ島城〈まつがしまじょう〉に入った氏郷は、同16年(1588)四五百森〈よいほのもり〉に城を築き、この地を「松坂」と名付けました。氏郷は城下町づくりに当たり、郷里日野や伊勢大湊〈おおみなと〉などから商人を招き、商業による町の繁栄に意を注ぎ、のちの“商都まつさか”の基を築きました。
 しかし、氏郷の松坂在住はわずか2年で、天正18年(1590)には42万石の太守として会津〈あいづ〉へ移封となり、その後92万石の太守となっています。わずかな期間で92万石に昇進するという例は他に類をみないことで、氏郷が当時どれほどの大器とみなされていたかがよくわかります。
 優れた武人であり、政治家であった氏郷は、当代一流の文化人でもあり、特に茶の湯は千利休〈せんのりきゅう〉の高弟として知られるところで、千利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評しています。
 しかし、惜しいことに、文禄4年(1595)「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」の辞世を残し、氏郷は40歳をもって、その生涯を終えています。秀吉が世を去る3年前のことです。

国指定史跡 松坂城跡〈まつさかじょうあと〉

 天正12年(1584)、羽柴秀吉〈はしばひでよし〉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄〈いいたかぐんやがわのしょう〉四五百森の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで同16年(1588)に築城したのが松坂城です。
 城は北東を大手、南東を搦手〈からめて〉とし、本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、隠居丸〈いんきょまる〉といった曲輪〈くるわ〉により構成された平山城〈ひらやまじろ〉です。本丸、二の丸、きたい丸、隠居丸〈いんきょまる〉には高い石垣を築き、三の丸の周囲には土塁と堀を巡らせ守りを固めました。天守台〈てんしゅだい〉は中央よりやや西に寄り、ここに三層の天守がそびえ、それをとり巻いてそれぞれの曲輪に敵見、金の間、月見などの櫓〈やぐら〉が配されました。
 城が完成して間もない天正18年(1590)、氏郷が小田原合戦の功により、42万石の太守として会津に移封されたため、 翌年、服部一忠〈はっとりかずただ〉が3万5千石を領して松坂城主となりました。
 その後、古田重勝〈ふるたしげかつ〉が城主となりましたが、その古田家も移封となり、元和5年(1619)に徳川頼宣〈とくがわよりのぶ〉の領地となったため、以後、松坂には紀州藩勢州〈きしゅうはんせいしゅう〉領18万石を統括する松坂城代が置かれました。
 紀州藩領下の松坂城に関して、史料には正保元年(1644)に天守が大風のため倒壊して土台だけになったと記されています。その後、寛政6年(1794)には、二の丸の二の丸御殿〈ごてん〉(徳川陣屋〈とくかわじんや〉)が改築されていますが、これは明治10年(1877)、失火のため惜しくも焼失しました。残っていた他の表門、裏門、中御門、土蔵なども明治14年頃までには取り壊され、当時の城中の建物としてはもと隠居丸にあった米蔵とされるものが移築され、現在、御城番屋敷〈ごじょうばんやしき〉土蔵として残っています。
松坂城跡は、平成23年2月7日に国指定史跡になりました。

松坂城跡

国指定史跡 松坂城跡の石垣

御城番屋敷〈ごじょうばんやしき〉

 御城番屋敷は、その名のとおり江戸時代末に松坂城の警護の任にあたった40石取りの紀州藩士〈きしゅうはんし〉20人と、その家族が住んでいた屋敷です。屋敷は松坂城跡の裏門跡と搦手口〈からめてぐち〉(竹御門)跡とを結ぶ道路の両側にあって、東西2棟の長屋建物(主屋)と前庭、畑地、土蔵、南龍神社〈なんりゅうじんじゃ〉からなり、約1ヘクタールの屋敷地は周囲に槇垣をめぐらしています。現在の主屋については、ある史料に「曲輪〈くるわ〉内の畑地へ両側20軒の長屋を建て、文久3年8月下旬引っ越す」とあって、文久3年(1863)に藩士20人の松坂来住に際して新築されたものであることがわかります。
 江戸時代の組長屋の現存例は、全国的にも山口県萩市〈はぎし〉などに例があるのみで、御城番屋敷は現存する組長屋の中でも最大規模で、住居として質的に最も充実しています。それに加えて、主屋以外に前庭、畑など槇垣でとり囲まれた敷地全体がよく残り、建築年代と由緒が明確であることと相まって大変貴重なものとなっています。
 また、かつては松坂城の隠居丸にあった米蔵を移築したといわれる土蔵や、藩祖徳川頼宣を祀る南龍神社を加えた御城番屋敷の一画は、歴史豊かな町並みとなっています。
 松阪市は、平成元年度、同屋敷の景観整備事業を行い、電柱を撤去し、主屋上のアンテナを撤去して共同化するとともに、主屋間の道路の舗装を屋敷の景観に合わせて石敷きに改めました。その後、屋敷を訪れる方のために、西棟北端の一戸を借り受け、当初の姿に復元整備したうえで平成2年4月より一般公開しています。
 主屋2棟は、国指定重要文化財(指定名称は「旧松坂御城番長屋」)、土蔵は県指定有形文化財(指定名称は「御城番屋敷土蔵」)に指定されています。

御城番屋敷

御城番屋敷

松阪物語

2020年4月編集

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