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松阪物語~射和・中万の豪商たち~

松阪物語~射和・中万の豪商たち~

冨山与三兵衛家〈とみやまよさべえけ〉

 伊勢商人を代表する先駆者として、最も有名なのが射和の冨山家です。冨山家は後北条氏〈ごほうじょうし〉の城下町・小田原〈おだわら〉で呉服商を始めたのは天正13年(1585)のこととされています。後北条氏滅亡の後は徳川家康を追って江戸に移り、寛文3年(1663)には江戸本町に「大黒屋〈だいこくや〉呉服店」を構えました。それ以後の冨山家の発展はまことにめざましく、またたく間に江戸、京都、大阪に店舗網を張りめぐらし、最盛期といわれる正徳5年(1715)には15万両余の資産を有するに至るなど、豪商冨山家の名は広く天下に知られるところになります。

 その頃の冨山家の繁栄ぶりは、「伊勢の射和の冨山さまは、四方白壁八ツ棟造り、前は切石切戸の御門、裏は大川(櫛田川〈くしだがわ〉)船が着く」とわらべ唄にまでなりました。また、井原西鶴は「日本永代蔵」の中で、「才覚を笠に着た大黒」と、その羽振りの良さに反発するかのような評を記しています。

 しかし、さしもの冨山家も江戸時代の中頃には急速に衰退に向かい、文化5年(1808)には事実上の破産状態に陥り、同12年(1815)13代定豪〈さだかつ〉が病没するにおよんで大黒屋冨山家の栄光に満ちた歴史は幕を閉じます。豪商・冨山家が江戸時代における商人の実態を極めて生き生きと今に伝えているのは、日本最古の会計帳簿といわれる「足利帳〈たしりちょう〉」をはじめとする貴重な史料を多数残しているからです。現在それらの史料は一括して東京の国文学研究資料館に保管されています。

また、射和町〈いざわ〉にある伊馥寺〈いふくじ〉は冨山家の菩提寺で、冨山家の何代にもわたる人びとの墓碑が立ち並んでいるのを見ることができます。

冨山邸

かつて射和にあった冨山邸

國分勘兵衛家〈こくぶかんべえけ〉

 國分家は、代々の当主が勘兵衛を名乗り、現在の当主は12代です。国分グループ本社株式会社は1712(正徳2)年4代勘兵衛が、江戸日本橋本町に店舗を構え、屋号を「大国屋」と称し、呉服を手掛けるととともに、常陸国〈ひたちのくに〉(今の茨城県)土浦〈つちうら〉で醤油醸造業に着手したのがはじまりです。

 関東平野の上質の大豆と小麦を原料とした醤油は美味で、大国屋は醸造した醤油のなかでも特に上質な醤油に「亀甲大」印を付け販売をしました。この「亀甲大」印は、土浦城が浮城で水に浮かぶ亀のようにみえ、「亀城」との別称があることから、その六角形の亀甲の中に大国屋の「大」をはめたといわれています。

 大国屋は醤油の品質改良に努め、江戸市中で高い評価を得るとともに、土浦藩の御用達として、また、江戸城西の丸御用も務めていました。その後、明治維新を迎え、1880(明治13)年に醤油醸造業を廃止し、広く食品販売を業とする卸売業(問屋)となりました。1887(明治20)年、缶詰の販売を開始、1888(明治21)年にはビールの販売を開始、1908(明治41)年にはおなじみの「K&K」を商標登録し、1919(大正8)年には新たに誕生したカルピスの将来性に着目して、発売と同時に取り扱いを開始するなど、たえず時代を先取りしつつ、新しい食品の取り扱いに挑戦し、発展を遂げてきました。

 創業以来、日本橋に本社を構え、国内全域にわたる流通ネットワークとともに中国、アセアンでの事業展開、海外60か国へ食品を販売するなど、国内有数の食品卸売業として、創業以来300有余年の歴史があります。

 松阪市射和〈いざわ〉町にある國分邸は、今もいくつもの蔵を有し、江戸時代の豪商「大国屋」の面影をしのばせてくれます。

國分邸

國分邸

竹川竹斎〈たけがわ ちくさい〉(1809年~1882年)

竹川竹斎

竹川竹斎画像

 竹川竹斎は、文化6年(1809)に射和〈いざわ〉の豪商・竹川家の分家、東竹川家に生まれ、本居宣長の門下でもあった政信〈まさのぶ〉を父とし、賀茂真淵〈かものまぶち〉の高弟・荒木田久老〈あらきだひさおゆ〉の娘・菅子〈すがこ〉を母としました。

 12歳の秋、家業見習いのため江戸店〈えどだな〉に入りますが、恵まれた学問的環境の中で育ったこともあって、国学〈こくがく〉はもとより農政学をも修めました。また、後には明治維新の立役者となった青年期の勝海舟〈かつかいしゅう〉を、実弟である竹口信義〈たけぐちのぶよし〉、國分信親〈こくぶのぶちか〉たちとともに支援し、その後の行動に影響を与えました。

 嘉永6年(1853)のペリー来航に刺激を受け、『護国論〈ごこくろん〉』や『護国後論〈ごこくこうろん〉』を著し、海舟を通じて幕府に提出するなど、幕末における幕政の顧問のような存在でもありました。そのため、慶応2年(1866)には幕府勘定奉行の小栗上野介〈こうずけのすけ〉や老中・小笠原壱岐守〈いきのかみ〉と面談し、国策について意見しています。また、経世済民の実践家としては、郷里にあってため池の整備や桑・茶園の開発を進めて地元の繁栄を図り、教育家あるいは文化人としては、古万古〈こばんこ〉の復興を試み、射和万古を興すなど大きな足跡を残しました。

 ことに、24、5歳からの念願で開設した「射和文庫」は、若い頃読書をしたくてもできなかった彼が「いかで、壱万ばかりの書をあつめて、志ある人には心やすくよませ」ようと多額の私費をつぎ込み、一族や有志にも呼びかけて開いたもので、日本の私立図書館の草分けともいうべきものです。名実ともに完備したのは、嘉永7年(1854)とされ、書籍の他、古瓦、古鏡、古銭なども収蔵、海舟から贈られた扁額〈へんがく〉が揚げられていました。

 毎月の例会には、自らも古典などを講義し、時には茶をたて、歌を詠み、香をきくなどして、さながら文化サロンのようであったところにも、竹斎の人柄が表れています。明治15年(1882)に74歳で亡くなりますが、その功績を後世に伝えるため、村民や親交のあった人々の手により、さまざまな顕彰碑が建立されました。
現存する竹川家は、玄関、茶室、座敷などがその当時のままによく残されており、勝海舟、山岡鉄舟などの書も大切に保管されています。

松阪物語

2020年4月編集

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