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「松阪もめん」とは


「松阪もめん」とは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。
では、どのようにして「松坂嶋」が生まれたのか、歴史をひもといてみましょう。



江戸で大流行した「松坂嶋」

「松阪もめん」は、天然藍の先染め糸を使って織り成す縞柄が特徴で、染め方で微妙な濃淡を表現できるので、デザインは無限にあるといってもよいほど。
着る人を選ばず、老若男女、どなたにでも合わせられ、日本人の肌の色にもよく映えることと、木綿という手軽さから、少しずつ人気が高まりつつあります。

今でこそ、東京で「松阪もめん」を知る人は少なくなりましたが、江戸時代、松阪もめん(当時は伊勢木綿、もしくは勢州木綿と呼ばれた)が大流行していました。江戸の人口が100万人といわれた当時、年間50数万反を売り上げたというのですから、その人気ぶりがうかがえます。

特に日本橋大伝馬町一丁目には、伊勢国出身の木綿問屋が集まり、「一丁目(大伝馬町)は伊勢店ばかり」と揶揄されるほどで、歌川広重の錦絵にもその様子が描かれています。

当時、江戸では、倹約令によって華美な着物を堂々と着られなくなっていたところでしたので、遠目から見ると無地のように見えて近づいてみると、様々な縞柄模様が粋でおしゃれだとして、江戸っ子をとりこにしたのです。
伊勢木綿のなかでも、特に縞柄のものを「松坂嶋」と呼んで、大流行しました。

柄だけでなく、伊勢木綿は原料である綿の質が良く、紡織技術もすぐれていたことも人気が高い理由でした。
実は、松阪には、古来よりすぐれた紡織技術があったのです。

歌川広重作 東都大伝馬街繁栄の図の画像 

歌川広重作 東都大伝馬街繁栄の図

紡織技術の伝来

5世紀後半頃、大陸から機織りの技術をもって渡来した技術集団「漢機(あやはとり)」「呉織(くれはとり)」が、現在の松阪市東部一帯に住みつき、紡績と機織の技術を伝えたのが始まりで、この地域は古代日本の紡織の中心地となりました。

その高い紡織技術を買われて、7世紀末に、時の文武天皇より「連(むらじ)」の姓を賜り、氏族と公認されて、以後、服連(はとりのむらじ)、麻続連(おみのむらじ)として、伊勢太神宮(天照大神)への織物の献納を義務づけられます。
その習わしが今も続いているのが、松阪市東部にある機殿(はたどの)地域です。

織物の神様

機殿には、神服織機殿(かんはとりはたどの)神社と、神麻続機殿(かんおみはたどの)神社という2つの神社があります。
そこでは、現在も毎年春と秋の2回、内宮で行われる神御衣祭(かんみそさい)に供えるため、それぞれ、和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹布と、荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻布を古式の作法通りに奉織しています。
織物の神様としても、京都西陣などから月参する人もいるほど信仰を集めています。
松阪には、紡織の技術が脈々と受け継がれてきた歴史があるのです。

神服織機殿神社の写真

神服織機殿神社

神麻続機殿神社の写真

神麻続機殿神社

織られる荒妙の写真

織られる荒妙

木綿と縞柄の伝来

15世紀になってエジプトやインドを原産地とする綿が日本に伝えられると、暖かく丈夫な木綿は「天下の霊財」とまで讃えられ、衣料革命を引き起こすことになりました。
しかし、綿の栽培は難しく、温暖な気候と水はけの良い土地、肥料となる「干鰯(ほしか)」が欠かせません。この条件を満たす地域が、伊勢湾岸と大阪湾岸で、綿の栽培が盛んになり、良質の綿がとれるようになったのです。

さらに、松阪の貿易商、角屋七郎兵衛によって、安南国(アンナンコク)交趾(コーチ・現ベトナム北部)周辺で織られていた「柳条布(りゅうじょうふ)」という、文字通り柳の葉の葉脈のように細い縞柄の綿布がもたらされます。

御朱印船の画像

御朱印船

良質の綿と高度な紡織技術、先染めの糸を使った縞模様と、「松阪もめん」が生まれる要件が整ったわけです。また藍染も盛んで、江戸時代、松阪には40軒余りの紺屋(藍染屋)があったそうです。
そして様々な縞柄=松坂嶋が生み出されていきました。
実は「松坂嶋」のシマは、嶋渡り(舶来)からきており、それがシマ柄といわれるようになったといわれています。

万筋柄の松阪もめんの写真

万筋柄の松阪もめん。

柳条布は万筋くらいの細い縞柄でした。


松阪もめん