• 松阪の魅力紹介
  • 季節の行事
  • モデルコース
  • フォトギャラリー
  • アクセス

蒲生氏郷コース「武将の道」

松坂城を築いた戦国時代の武将「蒲生氏郷」ゆかりの地をめぐる徒歩約2時間のコースです。

松阪城跡碑(まつさかじょうあとひ)

松阪城跡碑の写真 昭和53年(1978)に、蒲生氏郷(がもううじさと)開府390年と市制施行45周年を記念して表門(おもてもん)跡正面に建立されました。主碑の揮毫(きごう)〔注1〕者は、裏千家宗匠・千宗室(せんそうしつ)です。氏郷と千利休(せんのりきゅう)、松阪と裏千家のつながりの深さが窺えます。
〔注1〕「揮毫」とは ・・・「毫(ふで)を揮(ふる)う」という語源から、毛筆で何か言葉や文章を書くこと。また、著名人や書家などが依頼に応じて格言や看板の文字を書くこと。
※昭和53年当時は松阪城跡と表記していました。

松坂城の井戸(まつさかじょうのいど)

松坂城の井戸の写真 松坂城を描いた最も古い絵図にも載っている井戸です。当時のお城の中には3つの井戸がありましたが、そのうちで現在も水をたたえている唯一の井戸でもあります。この井戸は川原石を使った石組みでつくられています。蒲生氏郷もこの井戸の水を使っていたかもしれません。

 

松阪市立歴史民俗資料館(2階 小津安二郎松阪記念館)〈国登録有形文化財〉(まつさかしりつれきしみんぞくしりょうかん(にかい おづやすじろうまつさかきねんかん))

松阪市立歴史民俗資料館の写真2松阪市立歴史民俗資料館の写真1 松阪市立歴史民俗資料館は、明治43年(1910)の皇太子の飯南郡への訪問を記念し、飯南郡図書館として建てられました。本館は2階建ての近代和風建築で、倉庫となる土蔵が付属します。昭和52年(1977)まで松阪市立図書館として使用されていましたが、翌年から松阪市立歴史民俗資料館として生まれ変わりました。古き良きものの中に新鮮さを感じる建物です。2階は、世界的名匠としても名高い小津安二郎監督の顕彰施設「小津安二郎松阪記念館」として整備されています。

 

松阪市立歴史民俗資料館ホームページ

小津安二郎松阪記念館特設サイト

野面積み(のづらづみ)

野面積みの写真2野面積みの写真1野面積みの写真3 「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる石垣は、蒲生氏郷が近江国から呼び寄せた「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団が積み上げたといわれています。
 松坂城跡の石垣は、野面積みを主体に築かれていますが、時代とともに角の部分に「算木積み(さんぎづみ)」が取り入れられています。「野面積み」は自然石をそのまま積み上げ、石垣の表面の隙間に詰め石をしたもので、水はけがよく堅固であるところが特徴です。「算木積み」はタガネで整えた石柱を用いて、長い側と短い側を交互に積み上げています。「算木積み」は江戸時代に石垣を修復した際に取り入れられた工法です。

月見櫓跡(つきみやぐらあと)

月見櫓跡の写真 櫓(やぐら)とは、「矢倉」・「矢蔵」とも書き、もともとは武器・食糧の貯蔵や防御を目的につくられたものです。松坂城の本丸上段には「敵見櫓(てきみやぐら)」と「金ノ間櫓(きんのまやぐら)」が、本丸下段には「月見櫓(つきみやぐら)」などがありました。月見櫓からは、名前の通り月が良く見えたことでしょう。
 月見櫓のある本丸下段には、他にも「太鼓櫓(たいこやぐら)」・「遠見櫓(とおみやぐら)」・「鐘ノ櫓(かねのやぐら)」・「藤見櫓(ふじみやぐら)」などがあります。「太鼓櫓」は家臣の登城を告げる太鼓が置かれていた櫓、「藤見櫓」は藤見の宴が催された櫓であったといわれていますが、富士山を見ることができた櫓であったという説もあります。また、「鐘ノ櫓」は時刻を告げる鐘が置かれていた櫓であったと考えられています。

梶井基次郎文学碑(かじいもとじろうぶんがくひ)

梶井基次郎文学碑の写真 月見櫓の跡には、昭和49年に梶井基次郎文学碑が建立されました。揮毫(きごう)者は、梶井基次郎と親交のあった小説家の中谷孝雄(なかたにたかお)で、梶井基次郎は東京帝国大学(現在の東京大学)の学生時代に、結核療養のため殿町の姉宅(宮田家)に数か月滞在したことがありました。そのときの経験から『城のある町にて』を書き上げました。これは基次郎の文壇デビュー作でもあります。
 碑には松阪を舞台にした小説『城のある町にて』で、姉のもとに身を寄せている主人公の峻(たかし)が、ある午後、城跡から町を見渡しながら物思いにふける様子を描いた一文が刻まれています。

「今空は悲しいまでにはれてゐた。そして、その下に町は、甍(いらか)を並べてゐた。白堊(はくあ)の小学校、土蔵作りの銀行、寺の屋根、そして其処此処、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑(くず)めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出てゐる…」

本丸跡(ほんまるあと)

本丸跡の写真2本丸跡の写真1 松坂城は、四五百森(よいほのもり)と呼ばれる独立丘陵に築かれた平山城(ひらやまじろ)でした。本丸が最高部に置かれ、本丸を中心に、きたい丸、二ノ丸、隠居丸、三ノ丸が段状に築かれており、美しい曲輪配置を誇っています。
 上下二段からなる本丸の上段北西隅には美しい三層の天守が築かれ、金ノ間(きんのま)、敵見(てきみ)2つの櫓が守りを固めていました。本丸上段には蒲生氏郷や古田重勝(ふるたしげかつ)の居館もあったといわれています。また、下段には、太鼓櫓、遠見櫓、月見櫓などが置かれていました。
 当時の松坂城の特色のひとつとして「金ノ間櫓」の存在が挙げられます。金ノ間櫓は他の櫓と比べて、ひときわ規模が大きく、台所までついていたようです。この櫓は、その名の通り金箔を貼った“黄金の間”だったそうで、来客のあった場合に用いられていたのではないかと考えられています。金ノ間櫓および敵見櫓はいずれも2層になっており、多聞(たもん)櫓で連結していました。

天守跡(てんしゅあと)

天守跡の写真1天守跡の写真2天守跡の写真3 松坂城の天守は、3層で内部は4階建ての望楼型(ぼうろうがた)と伝えられています。望楼型とは、上層の建物が下層の建物の梁(はり)の上に載るかたちで築かれ、上下が一体となっていない構造のことをいいます。また、その他の特徴として、敵見櫓(てきみやぐら)と接続していたことも挙げられています。こうした天守と櫓が接続する形式は「連立式」と呼ばれ、近世城郭の先駆的なものとして高く評価されています。
 当時、松坂城を築くにあたって、松阪近郊の石という石、木という木はすべて集められたといわれています。石のなかには古墳時代の石棺(せきかん)〈石製のひつぎ〉の蓋までもが含まれており、そのうちの2つが天守跡で確認できます。
 天守は正保元年(1644)7月29日に大風によって倒壊したとされ、その後、再建されることはありませんでした。

本居宣長記念館(もとおりのりながきねんかん)

本居宣長記念館の写真1〔本居宣長記念館〕

 本居宣長記念館は、国学者・本居宣長(もとおりのりなが)の自画像に出会える他、自筆稿本類や遺品などを見ることができます。記念館の隣には宣長の旧宅である「鈴屋(すずのや)」の他、「桜松閣(おうしょうかく)」、「日本庭園」などがあります。宣長の息吹が今にも聞こえてくるようですね。

本居宣長記念館ホームページ


鈴屋の写真〔鈴屋〕
 元禄4年(1691)に宣長の祖父、小津定治が建てた家です。明治42年(1909)に魚町から松坂城跡に移築されました。本居宣長が12歳から72歳まで暮らした住まいです。現在、鈴屋遺蹟保存会によって保存されており、国の特別史跡に指定されています。
 ちなみに「鈴屋」とは、旧宅の2階にある書斎に付けられた呼び名です。この書斎は、宣長の名声があがりはじめた53歳の時、物置を改造してつくられました。その床の間近くに36個の鈴を連ねた「柱掛鈴(はしらかけすず)」をかけたことにちなみ、「鈴屋」と名づけられました。宣長の主な著作はこの部屋で書かれたといわれています。



鈴屋遺蹟保存会正門の写真〔鈴屋遺蹟保存会正門〕
 明治42年(1909)にできた門で、神社仏閣の補修を手がけていた名工が建築しました。奈良・東大寺などにも見られる大仏様(だいぶつよう)という建築様式が盛り込まれている品格のある建築物です。


桜松閣の写真〔桜松閣〕
 桜松閣は、以前は鈴屋遺蹟保存会の事務所として用いられていました。倉庫・正門・塀とともに明治42年(1909)、本居宣長旧宅が松坂城隠居丸跡へ移築された際に建設された建物です。旧事務所の唐破風玄関や正門は、鎌倉時代初期の大仏様の細部意匠を基調に造られています。昭和63年(1988)に茶席「桜松閣」として開所されました。

御城番屋敷〈国指定重要文化財〉(ごじょうばんやしき)

御城番屋敷の写真1御城番屋敷の写真2御城番屋敷の写真3

御城番屋敷は、松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武家屋敷です。全国に現存する江戸時代の武家組屋敷でも最大規模を誇る貴重な建造物として、平成16年(2004)、国の重要文化財に指定されました。文久3年(1863)に建築された主屋2棟のほか、前庭・畑地・土蔵・南龍神社があります。
 御城番武士の先祖は、徳川家康に仕えながら横須賀城を守る武士で、横須賀組と称されていました。徳川御三家創設に際し、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が紀州へ国替えしたときに、家康から頼宣へ横須賀組の一党が遣わされました。元和元年(1619)のことです。このとき家康は頼宣に「この者共は度々骨折った者たちだから秘蔵に思っているが、その方に遣わそう」と言いました。横須賀組が配属される紀州田辺城を支配することになった家老の安藤直次(あんどうなおつぐ)には「頼宣に与えた横須賀組を1人も散らさぬようにせよ」と言ったといわれています。
 こうして「田辺与力」と呼ばれた横須賀組ですが、田辺城を支配する安藤家とのいざこざが続き、各地へ散り散りになってしまいます。その後、横須賀組は紀州徳川家の菩提寺である長保寺の海弁和尚の協力を得ながら、帰参運動を行います。帰参運動が実ったのは文久3年(1863)のこと。紀州藩への復帰がかない、「松坂御城番勤務の辞令」をうけてここ松阪にやってきたのでした。
 御城番屋敷は、紆余曲折を経ても団結を失わなかった横須賀組を、迎え入れた建造物です。屋敷の風格は、御城番武士としての横須賀組の風格にも通ずるもので、現代に当時の武士の威風を思い起こさせるものでもあります。
 御城番屋敷内には、初代紀州藩主・徳川頼宣を祀っている南龍神社があります。もともと松坂城本丸跡にありましたが、昭和39年(1964)に御城番屋敷に住む紀州藩士の子孫が敷地内に移しました。毎年1月10日には、「南龍まつり」と称して頼宣公を偲んだ行事が行われています。さらに、敷地内にある土蔵は、隠居丸にあった米蔵を明治時代に移築したものであると伝えられています。

同心町(どうしんちょう)

同心町の写真 現在の松阪市役所の前は、「大手通り」と呼ばれ、一帯には、紀州藩が遠く離れた広範な勢州領(松阪領、白子領、田丸領あわせて18万石)を統治するための中枢的な役所(勢州奉行所、町奉行所、御船奉行所など)が置かれていました。
 また、現在の殿町の交差点から松阪市立第一小学校へ向かう道は代官小路(だいかんしょうじ)と呼ばれ、紀州藩松阪領を統治するための役所や、城代与力、町奉行与力、城代組同心たちの屋敷が置かれていました。また、代官所、郡奉行所、与力屋敷、田丸白子会所、松阪学問所、目付屋敷などもあったようです。
 同心町は、現在の殿町の中でも本殿町および上殿町地域の旧称です。ここには、紀州藩士の同心〔注2〕および鳥見〔注3〕クラスの紀州藩士60人余りの役宅が置かれていました。同心町通りには美しい生け垣が連なり、1戸当たり約200坪の広さをもつ敷地内には、現在でも江戸時代末期の建物が10数件残っています。
 江戸時代からほとんど姿を変えていない武家屋敷のひとつに、原田二郎(はらだじろう)旧宅があります。原田二郎は江戸時代末期の嘉永2年(1849)に、殿町の町奉行組同心である原田清一郎の長男として生まれました。明治・大正時代に活躍した実業家で、大正9年(1920)に全財産を投入して、原田積善会を設立しました。現在も、公益財団法人として様々な分野の社会貢献活動を支援しています。平成21年(2009)、殿町にある原田二郎の生家と敷地が同会から松阪市に寄付され、復原・整備を経て、平成24年(2012)から一般公開されています。


〔注2〕 同心とは・・・江戸幕府の役職名。諸奉行・諸司代・城代・大番頭・書院番頭などの配下に属し、与力の下にあって庶務・警察の事をつかさどった役人のこと。
〔注3〕 鳥見とは・・・江戸幕府の役職名。将軍の御鷹場を管理し、密猟の禁制などにあたった役人のこと。

松坂城のお堀〈神道川〉(まつさかじょうのおほり(じんどうがわ))

松坂城のお堀の写真2松坂城のお堀の写真

 松坂城を取り囲むお堀の総延長は2,1キロメートルといわれており、幅は広いところでは30メートルもありました。また、深さは最深で3メートルもありました。現在もこの地点を流れている神道川(じんどうがわ)はお堀のなごりです。
 お城に通じる門は「四ツ足御門(よつあしごもん)※別称“大手門(おおてもん)”」、「竹御門(たけごもん)※別称”搦手門(からめてもん)“」、「五曲口御門(ごまがりぐちごもん)」と、同心町へ通じる門(名称不詳)の4箇所ありました。名称の伝わらない門は「不開の門(あかずのもん)」といわれる不浄門であったようです。

背割下水(せわりげすい)

背割下水の写真2背割下水の写真ですの画像1 蒲生氏郷が整備した城下町には、伊勢街道(参宮街道)が東西に縦貫し、これに平行する魚町通りと職人町通りの3筋の主要幹線道路があります。この道路と道路の間には「背割下水」または「背割排水」といわれる下水溝があり、この溝が町境になっています。公共下水道が整備された現在、かつての背割下水は雨水排水路として、その姿を残しています。
 ちなみに、本町の松阪市産業振興センター駐車場南側(魚町一丁目側)の下水溝は、本町と魚町を分けている背割下水です。この下水溝をはさんで、魚町一丁目側に国学者・本居宣長の住んでいた鈴屋があり、本町側に豪商・三井家の屋敷がありました。

堀面地蔵(ほりめんじぞう)

堀面地蔵の写真 堀面地蔵は、天保年間(1830頃)にできたといわれています。失恋のためにお堀へ身投げをした女性を供養するため、女性の両親によって建立された地蔵堂です。昭和の初めまでキリスト松阪教会の前にありましたが、その後松阪工業高校の体育館の近くに移り、校地拡張のため昭和16年(1941)に現在の幸小学校前に移されました。
 その昔、幸町のあたり一帯は松坂城のお堀でした。お堀の側にあったため、堀面地蔵(ほりめんじぞう)と名付けられましたが、ひとつの願い事なら必ず聞いてくれるという言い伝えから「一事地蔵(ひとことじぞう)」ともいわれています。もともと恋愛成就をお願いするお地蔵さんでしたが、一事祈願へと移り変わっていったようです。
 昭和の初め頃から、この地域の有志の方が堀面地蔵奉賛会をつくり、境内の維持管理、会式の開催、浄財を社会に還元するなどのボランティアを行い、お地蔵さんをお世話されています。


上記は観光パンフレット「蒲生氏郷コース・武将の道」を編集した情報になります。

内容は2020年4月のものであり、最新の情報に関しては、各施設にお問い合わせください。

パンフレット 蒲生氏郷コース・武将の道