竹川竹斎(たけがわ ちくさい)は、松阪市射和(いざわ)にある伊勢商人の家系に生まれ育った豪商であり、幕末時代を切り拓いた文化人です。
「伊勢商人というのは伊勢の国に本店を置き、江戸や大阪、京都などに支店を出していた商家のことを言います。ここ松阪市には、三井グループの祖・三井高利が生まれた三井家発祥の地もあるんですよ」。
竹川裕久さん
そう教えてくださるのは、一般社団法人松阪市観光協会の専務理事の竹川裕久さん。お名前が示すように、竹川さんは竹斎の子孫でいらっしゃいます。
国学や農政学を修めた竹斎は、勝海舟の政治顧問という立場で、日本の大転換期である明治維新に大いに関わりを持ちます。開国を唱え幕末に大活躍した海舟の考え方は、竹斎が著した『護国論』『護国後論』に基づいたものでした。竹斎の考える護国とは、鎖国を解き、文明開化を果たすこと。この考えは時代に先駆けた、革新的なものでした。
「なぜ竹斎がこのような考え方を持ったのか。まずひとつは、彼が伊勢商人だったこと。日本は長く鎖国していましたが、伊勢商人はずっと広く外国へ目を向けていました。伊勢の国の特産品である茶や木綿などは、外貨を稼ぐことができる重要な輸出品なんですね。そして、この松阪が伊勢参りの人々が往来する町であり、さまざまな情報が続々ともたらされる土地柄であることも大きかったのではないかと感じています」。
松阪茶
松阪木綿
海舟の精神的支柱でありつつ裏方に徹した竹斎が、歴史の表舞台で語られる機会はまだ多くはありません。しかし、海舟が江戸無血開城を成し得たとき、竹斎はじめ竹川一族が物心で支えていたのは間違いのないこと。そして、江戸時代の終焉が日本の中の権力争いという閉じたものではなく、国の体力が削がれるのを最小限に抑えながら「世界へ扉を開くものへ」と舵を切れたのは、竹斎が伊勢商人として体得した盤石の国際感覚があったからこそだったのでしょう。
勝海舟からの手紙
勉強家であった竹斎は、後進の教育にも大変熱心でした。その代表ともいえる偉業が射和文庫の開設。「いかで、壱万ばかりの書をあつめて、志ある人には心やすくよませ」という竹斎が私財を投じて開いた日本の私立図書館の草分け的存在です。
射和文庫外観
「射和文庫には1万数千冊の書籍に加え、博物学的な文物も収蔵されました。茶会が開かれることもあり、多角的に文化を学ぶためのカルチャーセンターでした。」
現在、射和文庫は非公開ですが建物は保全されており、外観を見学することは可能です。周辺には竹川家の親戚で、竹川三兄弟と呼ばれる竹斎の弟2人(信義、信親)が養子に入った竹口邸や國分邸といった豪商の邸宅が残るなど、美しい町並みを楽しむことができます。
國分邸
竹斎は地元の物産の復興にも積極的でした。例えば「茶」もその一例です。
「実は、三重県は栽培面積や生産量で全国第3位というお茶どころなんですよ。竹斎は、お茶の栽培を推奨し、茶園を開墾し、なんと製茶工場を建てたり、輸出事業も手がけました。『蚕茶楮書』(かいこちゃかみのきのふみ)という桑、茶、楮の解説書も残しています。飯南飯高エリアの茶畑が広がる景色は、松阪の自慢の景観の一つです。」と竹川さん。
その他、古くからの地産品である水銀を用いた「伊勢白粉」や、「万古焼」の復興なども手掛けています。特に水銀は、古代から産出し、地域の発展と繁栄をもたらした産品。日本の未来を考え抜いた竹斎は、同時に歴史をよく知る人物でもあったのです。
世界を見据えて国の在り方を説き、地域が富むための方法を編み出し、世界に認められる国づくりを考え、地域に根差したものづくりを興す。遠近の視点を自在に働かせ、画期的な試みを着々と実践し続けた竹斎は、堅実な実業家であり、戦略的なイノベーター。その活力、柔軟さ、アイディアマンぶりに、今なお驚くばかりです。
竹川竹斎
伊勢商人と呼ばれる豪商の本宅が並ぶ射和・中万(ちゅうま)の町。射和の川上にあたる丹生という地域が古代から一大水銀産地だったため大いに栄えたことが、伊勢商人発祥の原点になりました。