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角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓

ページID:0111751 更新日:2020年5月8日更新 印刷ページ表示
  • 本庁管内
  • 市街地区

1-5
角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓
(かどやしちろべえとうくようひならびにまつもとだどうはか)

市指定史跡

概要

  • 2基
  • 江戸時代
  • 白粉町 来迎寺
  • 供養碑:総高139.5cm、墓碑:総高56.5cm
  • 昭和60年3月30日

 安南(あんなん)(ベトナム)貿易家の角屋七郎兵衛(1610~1672)は、湊町の廻船問屋角屋七郎次郎の次男。寛永10年(1631)22歳の時、初航海で交趾(コーチ)へ渡るが、その2年後に鎖国令が出されたため、現地に永住することを決意する。その後、會安(ホイアン)の日本人町の長として活躍をしながら、松坂の一族とも音信を交わし、伊勢神宮や松坂城下の寺社への寄進を続けた。供養碑は、七郎兵衛とその一族の名を刻むが、建立年は不明である。
 松本駝堂(1673~1751)は、角屋家別家出身の外科医。松坂出身の丹羽正伯(にわしょうはく)や植村正勝とともに本草(ほんぞう)学者として知られた人物である。

角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓1

角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓2