• 松阪の魅力紹介
  • 季節の行事
  • モデルコース
  • フォトギャラリー
  • アクセス

三井高利コース「豪商の道」

江戸時代の松阪は、紀州藩の飛び地であったため、封建的な規律が比較的ゆるやかな、武士の少ない町でした。また、三都(江戸、京都、大阪)に出店(でみせ)を持つ商人が多かったため、これらの出店で稼いだお金とともに、三都の政治・経済・文化などの最新情報がいち早くもたらされました。三都の中でも、特に江戸とのつながりの深い町でした。
井原西鶴が称賛した日本一の大商人「三井高利」ゆかりの地をめぐる徒歩約2時間のコースです。

清光寺(せいこうじ)

清光寺 本堂 清光寺は奈良時代に飯高郡町平尾へ開かれ、蒲生氏郷(がもううじさと)の松阪開府に伴って天正16年(1588)に松坂城下へ移転されました。豪商・長谷川家や豪商・中川家などの菩提寺(ぼだいじ)です。和製キートンと称された喜劇役者・曾我廼家十郎(そがのやじゅうろう)〔注1〕や写真電送装置などの発明者・丹羽保次郎(にわやすじろう)〔注2〕など著名人のお墓もあり、歴史と文化の薫り高い寺院のひとつです。
※本堂内は、非公開です。

〔注1〕曾我廼家十郎:1869-1925 明治-大正時代の喜劇俳優。

〔注2〕丹羽保次郎:1893-1975 大正-昭和時代の電気工学者。1934年文化勲章受章。

岡寺山 継松寺(おかでらさん けいしょうじ) 

岡寺山継松寺 岡寺山継松寺は、奈良時代、飯高郡石津(せっつ)(現在の松阪市石津町)に開かれ、慶長17年(1612)に当時の松坂城主・古田重治(ふるたしげはる)の母・あせちが願主となって今の場所に移転され、境内の諸堂が整備されました。地元では「岡寺(おかでら)さん」の名で親しまれ、厄除け観音として信仰されています。江戸時代中期にはこの寺の住職を中心として豪商や僧侶・神主たちを集めた文芸活動が盛んに行われ、松阪の一大文化サロンが形成されました。また、本町の豪商・小津清左衛門(おづせいざえもん)家とも縁が深く、7代目・長保(ながやす)が寄進した韓天寿(かんてんじゅ)〔注3〕銘文の銅製香炉は、市の有形文化財に指定されています。
 継松寺では毎年3月初めの午(うま)の日に近い土日の2日間にわたり「初午大祭」が行われ、参道や境内、駅前商店街に露店が立ち並び、厄年の男女を中心に大勢の参拝客でにぎわいます。「厄をはじきさる」という意味をもつ縁起玩具の「猿はじき」が購入できることでも有名です。
※本堂内陣・書院・鐘楼の内部や寺宝類は非公開です。

〔注3〕韓天寿:江戸時代中期の書家・篆刻(てんこく)家。

御厨神社(みくりやじんじゃ)

御厨神社三囲神社 御厨神社は、飛鳥時代に内宮の平生御厨(ひらおのみくりや:現在の大平尾町・町平尾町・猟師町一帯)の奉祀神として祀られ、天正年間に蒲生氏郷が松坂城下へ移して、松坂城の鬼門除けとしました。国学者・本居宣長や豪商・三井家と縁の深い神社でもありました。宣長は魚町の氏神であるこの神社に「古事記伝」を献納し、松阪の三井家は自宅の屋敷神だった三囲神社(みめぐりじんじゃ)を本殿横に移しました。松阪の歴史を代表する蒲生氏郷、本居家と三井家の心のよりどころはここにありました。
 また毎年7月中旬には、松阪の夏に欠かせない「松阪祇園まつり」が行われ、御厨神社からもみこしが繰り出されます。

のこぎり状の町並み(のこぎりじょうのまちなみ)

のこぎち状の町並み 蒲生氏郷の町づくりの特徴のひとつに「のこぎり歯状の町並み」があります。町内の道筋は参宮街道を含め、のこぎりの歯のようにギザギザに屈折しています。これは町の家の軒を食い違いに並ぶようにして、1町先を見通せないように工夫したものです。これは松坂城を守るためのアイデアだといわれています。こうした町のつくりが今も残っています。

旧小津清左衛門家(きゅうおづせいざえもんけ)

旧小津清左衛門家内観旧小津清左衛門家外観 江戸時代屈指の豪商・小津清左衛門(おづせいざえもん)の本宅が、公開されています。松阪市は、この商家造りの建物を復原・修理し、平成8年(1996)から一般公開しています。展示品の「万両箱」からも、当時の繁栄振りがしのばれます。
小津家は、承応2年(1653)3代・清左衛門長弘(ながひろ)を創業の祖とする江戸店持ちの紙・木綿商で、代々清左衛門を襲名しました。松阪商人の中でも、三井家や長谷川家、長井家に並ぶ豪商ですが、三井家よりも20年も前に江戸へ進出した老舗です。

旧小津清左衛門家ホームページ

三井家発祥地(みついけはっしょうち)

三井家発祥地 松阪が誇る商人・三井高利(みついたかとし)ゆかりの場所。高利の産湯に用いられたと伝承される井戸などが残っています。豪商から財閥、そして現代の三井グループへ。三井家の伝説はここから始まりました。
 三井家は、一般的な「伊勢商人」と称される長谷川家や小津家などとは、商いの規模も質も異なっていました。長谷川家は江戸の木綿店5軒に使用人が約120人余り、小津家は江戸の紙店2軒と木綿店1軒に使用人は100人余りでしたが、江戸時代中期の三井家は三都(江戸、京都、大阪)と松阪に呉服店と両替店など15軒を構え、使用人は1,100人を超えていました。また三井家は、現在の百貨店方式の基といわれている「現金掛け値なし」や売り切り、諸方商人売り(卸売り)、引札(チラシ)配布など、当時の商いとしては珍しい手法を取り入れました。まさに「伊勢商人」の枠を超えた活躍であったといえます。
※内部は非公開です。

松阪もめん手織りセンター(まつさかもめんておりせんたー)

松阪もめん手織りセンター 「粋な江戸っ子」にもてはやされた、伊勢商人のブランド商品「松阪もめん」を手にとることができます。伝統工芸品としても有名ですが、近年は藍染めが若者のファッション・アイテムとして注目を浴びています。伝統と流行が織りなす松阪の“粋”を感じてみてはいかがでしょうか。使い込むほどに味わい深くなっていく松阪もめんをぜひ手に取ってみてください。

松阪もめん手織りセンターホームページ

旧長谷川治郎兵衛家(きゅうはせがわじろべえけ) 

旧長谷川治郎兵衛家外観 魚町一丁目の「丹波屋(たんばや)」を屋号とする、木綿商・長谷川治郎兵衛(はせがわじろべえ)家の本宅で、平成25年に建物や敷地、資料が松阪市に寄贈されました。その建物や資料が商家の変遷を今に伝える貴重なものとして評価され、平成28年には国の重要文化財に指定されています。立派なうだつ〔注4〕の上がった屋根が、当時の長谷川家の繁栄振りを象徴しており、江戸時代から現在に続く、伊勢商人の繁栄の証が残る場所です。
 長谷川家は延宝3年(1675)3代・次郎兵衛政幸(じろべえまさゆき)を創業の祖とし、やがて江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商でした。魚町一丁目の本宅は、主人とその家族の住む居宅が中心であり、江戸店で商う松阪木綿の仕入れも行っていました。

〔注4〕うだつ…屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために作られた防火壁のこと。

旧長谷川治郎兵衛家ホームページ

本居宣長宅跡(もとおりのりながたくあと)

本居宣長旧宅 本居宣長宅跡は、国の特別史跡です。日本の学問史上にその名を残す国学者・本居宣長が、12歳から72歳まで暮らした居宅「本居宣長旧宅(通称:鈴屋<すずのや>)」の跡地です。旧宅(鈴屋)は松坂城跡に移されましたが、長男の春庭(はるにわ)が住んでいた家と土蔵、宣長が愛した庭の松は現在も残されています。この地から、国学の礎が築かれることになりました。

 松坂城跡に移築された旧宅(鈴屋)は、本居宣長記念館により管理されており、宅跡とともに国の特別史跡に指定されています。ちなみに「鈴屋」とは、旧宅の2階にある書斎の呼び名です。この書斎は、宣長の名声があがりはじめた53歳の時、物置を改造して造られました。書斎の床近くに36個の小鈴を連ねた「柱掛鈴(はしらかけすず)」をかけたことから、この名がつけられました。宣長の多くの著作は、この部屋で書かれました。

背割下水(せわりげすい)

背割下水背割下水2 松阪の旧城下町には、蒲生氏郷の時代の町割りがそのまま息づいています。表通りに面した町屋の裏側に下水溝が流れる仕組みになっており、これを「背割下水」または「背割排水」などと呼んでいます。時代の差こそあれ、氏郷が整備した1本の背割下水に、三井家と本居家の生活をのせた水が流れ込んでいたことは、松阪の歴史の豊かさを象徴するものであり、現代の人々に先人を身近に感じさせるものでもあります。現在は公共下水道が整備されたものの、かつての背割下水は今でも雨水排水路として残されています。

本陣「美濃屋」跡(ほんじん「みのや」あと)

本陣「美濃屋」跡 本陣「美濃屋」のあったところです。ちょうどこの路地から2店舗目辺りまでが本陣跡です。本陣とは、江戸時代の街道筋の宿場にあって、大名や公家・幕府要人などが宿泊した公的な指定宿のことです。美濃屋は、国学者・本居宣長が浜田藩主・松平康定(まつだいらやすさだ)〔注5〕に源氏物語を講釈した場所として有名です。その時、宣長さんは松平康定より「駅鈴」を賜りました。お殿様がどんな質問をしても、宣長はしっかりと答えを返したそうです。

〔注5〕松平康定:江戸時代後期の大名。石見(いわみ)(島根県)浜田藩主。

樹敬寺(じゅきょうじ)

樹敬寺樹敬寺山門 国学者・本居宣長一族の菩提寺(ぼだいじ)です。国史跡に指定された宣長夫妻と長男の春庭(はるにわ)夫妻の墓が、背中合わせに立っています。15歳の宣長は、この寺で聴いた赤穂義士(あこうぎし)の講釈を一字一句暗記し、帰宅後「赤穂義士伝」を書き残しました。また29歳から、この寺の塔頭(たっちゅう)・嶺松院(れいしょういん)で開かれた月例の歌会に参加し、お弟子さんたちと四季折々の和歌を詠んだことでも知られています。
 また、樹敬寺には明治・大正期に活躍した実業家・原田二郎(はらだじろう)の墓と歌碑があります。原田二郎は、大正9年(1920)に全私財を投じて原田積善会を設立し、現在でも様々な分野の社会貢献活動を支援しています。原田家は、樹敬寺の筆頭檀家でもあります。
※本堂内は非公開ですが、宣長・春庭夫妻の墓などは参拝できます。

来迎寺(らいごうじ)

来迎寺本堂来迎寺正門 松阪を代表する豪商・長井家や角屋家の菩提寺(ぼだいじ)です。かつては、三井一族のうち松阪三井家・永坂町三井家の菩提寺でもあり、本堂内三井家位牌殿には三井高利(みついたかとし)の祖父・三井越後守高安(みついえちごのかみたかやす)夫妻、父・高俊(たかとし)夫妻、そして高利夫妻など82柱の位牌があります。また、江戸時代初期に活躍した安南貿易商・角屋七郎兵衛(かどやしちろべえ)の供養碑などもあります。本堂の外観は2棟の異なる仏堂が隣り合うように見えますが、内部はひとつにつながった豪壮な造りの複合仏殿で、国の重要文化財に指定されています。享保16年(1731)に再建された本堂は、当時の檀家であった三井一族・長井家・小津家をはじめとする豪商らから8,700両余りの寄進を受けて建てられました。今の貨幣価値に換算すると、1両が約10万円弱といわれていますから、途方もない金額になります。
 また、毎年9月28日には、檀信徒より献灯されたローソクの火で文字を描く祈祷法要「元三大師会式」があり、大勢の参拝者でにぎわいます。
※本堂内部は非公開です。

日野町の道標(ひのまちのどうひょう)

道導 伊勢街道と和歌山街道の分岐点を示す道標です。この道標には、「右 わかやま道」「左 さんぐう道」と刻まれていますが、建てられた年号はわかりません。しかし、江戸時代後期の街道図には、既にこの道標が描かれています。伊勢街道は、四日市日永の追分から東海道と分岐して南下する道で、松阪を経由して伊勢へ向かいます。東海道(江戸~京都)は江戸幕府の道中奉行が支配する五街道(旧1級国道)のひとつ、伊勢街道は江戸幕府の勘定奉行が支配する脇街道(旧2級国道)のひとつです。
 一方、和歌山街道はこの道標が起点となり、高見峠を越えて和歌山に向かう道です。江戸時代、紀州藩は遠く離れた伊勢国内の紀州藩領(松阪・田丸・白子領合わせて18万石を「勢州三領」という)と直結する重要な道路として位置づけ、藩道(現在の県道クラス)として整備しました。この道は、紀州藩主の参勤交代や鷹狩り、勢州三領の巡見(じゅんけん)などに使われました。また、江戸時代後期になると大和(奈良)・和歌山・大阪方面からの参宮道者が往来しました。現在は、ほぼ国道166号筋に重なり、人々の生活道として利用されています。


上記は観光パンフレット「三井高利コース・豪商の道」を編集した情報になります。

内容は2020年4月のものであり、最新の情報に関しては、各施設にお問い合わせください。

パンフレット 三井高利コース・豪商の道