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朝田寺本堂

ページID:0109122 更新日:2020年5月27日更新 印刷ページ表示
  • 本庁管内
  • 東部地区

56-106
朝田寺本堂
(ちょうでんじほんどう)

県指定有形文化財

概要

  • 1棟
  • 慶安5年(1652)
  • 朝田町 朝田寺
  • 入母屋造、本瓦葺
  • 昭和54年3月23日

 慶安5年(1652)、伊勢大湊の大工、阿部久五郎によって建てられる。桁行6間、梁間3間、外陣・内陣・内内陣をそれぞれ2間にとった入母屋造り本瓦葺き、妻入りの建物である。内内陣は一段高く、その中央に須弥壇(しゅみだん)があり、その上に建築用厨子を拵えて本尊地蔵菩薩を安置する。この内内陣にあたる2間分は、安永7年(1778)に建て増ししたものである。その際、本堂が低く見えたのか本堂全体を30cmほどかさ上げしており、そのときの記録「本堂あげ方の図」が寺に残されている。柱上の組物は出組(でぐみ)、天井は折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、妻は三ヶ所に木鼻つき平三斗(ひらみつど)をおいて大虹梁(だいこうりょう)を受け、拝(おがみ)・降懸魚(くだりけぎょ)はともに三花(みつばな)である。地方寺院としては丁寧な造りで、桃山時代建築の遺風を残している。
 朝田寺は松阪市の東部の田園地帯にあって、周囲を水田に囲まれている。正式名称は光福山延命院朝田寺というが、「朝田の地蔵さん」のほうが通りがよい。
 朝田寺縁起では、平安時代、当地に住した練公(ねりぎみ)長者の本願により、弘法大師によって創建され、織田信長の伊勢平定の際、兵火に遭って、諸堂ことごとく消失したとあるが、寺域を現在地に移したのは、元亀(げんき)年間(1570~1573)のことである。この時期、真言宗から曹洞宗に転宗し永平寺の支配を受ける。元和(げんな)5年(1619)、紀州藩領になると、藩主徳川頼宣の帰依をうけ、寺領も増加し、寺運は隆盛に赴いた。慶安5年には、新しく本堂が建立され、天台宗延暦寺派となり、現在にいたる。
 松阪市を中心とした当地方では、宗派を超えて、葬儀がすむと「道開け供養」と称して地蔵菩薩に故人の冥福を祈る風習がある。その際、故人の着ていた衣類を持って参詣するが、この衣類は本堂の天井に掛けられ、地蔵盆まで吊り下げられている。

朝田寺本堂