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貝蔵遺跡

日本最古の墨書土器発見!
3世紀初頭、邪馬台国の時代の土器に墨が!

貝蔵遺跡


 嬉野中川町の貝蔵遺跡から、邪馬台国の時代である3世紀初頭の土器に筆と墨で人面や記号などが書かれた墨書土器4点が平成9年4月に発見されました。
 これらの墨書土器は全て、幅16m、深さ2mの人工水路の中から出土したものです。今回発見された4点については、いずれも赤外線分析によっても墨の使用が確認され、日本最古の墨書土器になります。
墨書土器1墨書土器1
墨書土器1

墨書土器1
 3世紀初頭の広口壺(口径13.7cm,残存部の高さ10.5cm)の体部に字状の墨書が施されていました。墨書の形などから見れば龍文が退化したものと考えられます。また筆運びについては、土器をさかさまにして書いたのではと考えています。
墨書土器2墨書土器2
墨書土器2

墨書土器2
 同じく3世紀前半の直口壺(口径6.9cm,高さ10cm)の体部に人面を墨書したものです。
 人面を施したものにはほぼ同時期に線刻の人面土器が存在しますが、墨書のものはこの土器が最古のものです。また、人面を施した墨書土器は奈良時代には多数確認されていますが、やや形が異なることなどからすれば弥生時代の線刻人面からの系譜と考えることが出来ます。
墨書土器3墨書土器3
墨書土器3
 赤彩を施した高杯の破片にやや細かい筆によって書かれた墨書です。その墨書については現在検討中ですが、何らかの記号と推定されます。
墨書土器4
墨書土器4
 高杯の内面に1条の線が施された物です。

 平成7年に確認された墨書土器は4世紀初頭の壺に「田」が書かれた土器でした。
 今回の墨書土器は、それよりも約100年古い土器に墨書が施されたものです。また墨書土器2の人面が施された土器には文字らしきもの等も存在することや、墨、筆が存在することなどから考えれば日本の文字の歴史は3世紀まで遡るものと考えられます。

 また方部遺跡、貝蔵遺跡の調査で3世紀に嬉野地域一帯に大きな灌漑(かんがい)施設を施した人工の流路が一帯に造営されていたことが伺えます。こうした遺跡が中村川周辺に点在することはこの地が海上交通と陸上交通の要所であったことを物語るものでしょう。


文字の歴史(*は大陸から入ったもの)
1世紀 *「貨泉(かせん)」と書かれた貨幣(京都)
  *「漢委奴国王」の金印(福岡)
2世紀 *東大寺山古墳(奈良)の「中平・・」と刻まれた鉄剣
3世紀初頭 貝蔵遺跡の墨書土器(三重嬉野町)
3世紀前半 卑弥呼の支配(魏志倭人伝)
239年 *胴鏡に書かれた文字「景初三年」
4世紀初頭 柳町遺跡(熊本)から出土の木片に「田」の墨書
369年 *石上神宮(奈良)の七支刀銘
4世紀前半 片部遺跡の墨書土器(三重嬉野町)
5世紀中期 稲荷台1号墳(千葉)出土の鉄剣銘「王賜」など12文字
471年 稲荷山古墳(埼玉)出土の鉄剣銘
622年 法隆寺釈迦三尊像台座の墨書文字


鑑定:水野正好・奈良大学学長(考古学)
   西山要一・奈良大学教授(保存科学)

貝蔵遺跡
 近鉄伊勢中川駅の東側一帯に広がる縄文時代から奈良時代の遺跡です。遺跡の中心は弥生時代中期から古墳時代前期の集落跡と、片部遺跡等で発見されている灌漑施設である人工水路です。

 中央部を流れる水路は幅14m、深さ3mの大きな溝であり、溝内では堰跡が5ケ所確認され、導水を施す丸太材などが多数見つかっています。この中央部の水路は、片部遺跡の溝へつながるものとされ、片部、貝蔵遺跡が一連の遺跡であることが推定できます。

 住居の跡としては、近鉄線に沿って大型の掘立柱建物の一部が確認されています。また、集落を画する幅1.5m、深さ1mの環壕が1条確認され、ここから加飾器台をはじめ多くの北陸地方の土器が出土しています。

 これらの出土品から、この遺跡は当時、他地域との交流が盛んであったことが推測されます。

片部遺跡と貝蔵遺跡の墨書土器
 平成7年に確認された片部遺跡の墨書土器は、4世紀の初頭とされる壺に「田」の文字が書かれていました。
 貝蔵遺跡の墨書土器は、それよりも約100年古いものです。

 今回の発見で、墨書の歴史が弥生時代まで遡ることになり、本来文字を書くための道具とされる墨と筆が存在することから、日本の文字の歴史もさらに遡りそうです。

 片部遺跡と貝蔵遺跡から日本最古の墨書土器が相次いで発見され、また、両遺跡の大規模な灌漑施設などをみると、嬉野地域が歴史的にみて先進性を持った地域であったことを物語っているといえるでしょう。