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史  跡

向山古墳

古墳時代(4世紀)/小野町上の坂、一志郡嬉野町下之庄字向山/指定面積:16,219平方メートル
昭和50年6月26日国指定

本墳は、市域の北端、松阪市と嬉野町との境に延びる丘陵の突端部頂上に位置する前方後方墳で、狭い丘陵尾根を利用して構築されている。
古墳の規模は、全長71.4m、前方部長31.2m、同幅26.7m、同高3m、後方部長40.2m、同高5.4 mで、葺石と円筒埴輪列を有する。
主体部は大正3年に発掘され、南北方向に主軸をもつ粘土槨であることが明らかになっている。その際、主体部より鏡3面・刀身1口・石釧14個・筒形石製品2個、粘土槨外より槍身3口が出土したが、径「7.8 寸」の大形鏡1面と刀身1口は散失してしまい不明である。
現在、東京国立博物館に、小形のボウ製鏡(櫛歯文鏡、内行花文鏡、変形獣帯鏡)3面、碧玉製の車輪石3個・石釧11個・筒形石製品2個が所蔵されている。

阿坂城跡 附 高城跡・枳城跡

南北朝・室町時代/大阿坂町枡形・椎ノ木谷・井戸谷/指定面積:165,547平方メートル
昭和57年4月7日国指定

阿坂城跡は、標高300 m余の山頂に築かれた山城で、南北300 m、東西150 mの範囲に及ぶ。
南北二つの郭からなり、北郭を椎ノ 木城、南郭を白米城とも呼び、台状地を中心に堀切り、土塁等が配されている。
阿坂城は、文和元年(1352)の南北朝の争乱を伝える資料に初めて登場するが、もっともよく知られるのは応永22年(1415)に北畠満雅(みつまさ)が足利幕府軍を迎え撃った戦いである。籠城する満雅は、馬の背に白米を流して水があるように見せて、水断ち作戦に出た幕府軍を欺き撃退したと『南方紀伝』(江戸時代初めに成立)は伝える。
その後、永禄12年(1569)、大河内城に拠る北畠具教を攻略するため、織田信長は大軍を発し、先ず北畠の重臣大宮氏の守る阿坂城を落とし廃城に至らしめた。

伊勢寺跡

奈良時代/伊勢寺町世古62/指定面積:2,180平方メートル
昭和12年11月5日県指定

伊勢寺町地内に入って間もなく、市道外五曲伊勢寺線の北側に一段高く真言宗に属する国分寺(かつては慶雲寺と称していたが、江戸時代になって国分寺と改められた)の境内がある。
この国分寺境内を中心とした東西150 m、南北180 mの方形区画が伊勢寺跡の寺域と推定されている。指定区域はそ一部で境内にかぎられる。
伊勢寺跡の創建は出土瓦から、7世紀末ごろと考えられ、その後、奈良時代から平安時代初頭にかけて大規模な伽藍の整備がおこなわれたと思われる。なお、伊勢寺跡の寺域北側からは、緑釉の瓦が出土している。

松ケ島城跡

安土桃山時代/松ケ島町城ノ腰643 /指定面積:287平方メートル
昭和31年12月3日県指定

三渡川右岸の海岸線から東へ500m、俗に天守山と呼ばれる一辺約20mのほぼ方形の台状地が、本丸天守台の跡と考えられている。
永禄10年(1567)の頃、北畠具教はここ細首(松ケ島の旧名)に築城するが、同12年、織田信長の来攻に際して自ら焼き廃城とする。
天正8年(1580)、具教の養子に入った信長の次男北畠信雄は同地に築城、松ケ島城と改称し
た。
その後、同12年に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点として栄えたが、松阪城の完成とともに廃城となった。今も周辺には丸ノ内・城ノ腰・殿町・本町等の地名が残る。

松阪城跡

天正16年(1588)/殿町1536外/指定面積:45,142平方メートル
昭和27年7月9日県指定

蒲生氏郷の築城になる平山城で、北東を大手、南東を搦手とし、本丸、二の丸、三の丸等よりなる。本丸、二の丸に高い石垣を築き、三の丸の周囲には土居と水堀が巡っていた。
氏郷は天正18年(1590)、会津へ転封となり、後、服部一忠、古田重勝、同重治と城主は続くが、元和5年(1619)松阪は紀州藩領となり、それ以後城内には藩の出先機関が置かれた。
本丸西隅の天守台には三層の天守が聳えていたが、正保元年(1644)大風により倒壊したと記録にあり、同じ頃の城絵図には敵見・金ノ間・太鼓・月見・遠見櫓が描かれている。
幅15〜31m、総延長2km余あった水堀は明治初期に埋められ、神道川等に名残りをとどめる。
なお、平成元年におこなわれた発掘調査により、天守閣の基礎や敵見櫓・多聞の礎石、門・塀の柱穴などが検出された。また、金銅装の六葉金具や多数の瓦も出土した。

本居宣長旧宅

元禄4年(1691)/殿町1537 松阪城跡内/建坪:74.25平方メートル
昭和28年3月31日国特別史跡指定

宣長が12歳のときから亡くなる72歳まで住居としていた家である。書斎の名を取って鈴屋(すずのや)と呼ばれるこの家は、元禄4年に宣長の祖父が養母の隠居屋敷として、職人町清光寺門前に建て、享保11年(1726)に魚町に移したものである。
宣長は、母妹弟らと、父の没した翌寛保元年(1741)にこの家に移り住み、以後住宅として明治に至った。
明治42年松阪城跡の現在地に移転したおり、庭園などは旧状を模し、若干の復元をして江戸時代の町家の姿を今に留めている。
間取りは、1階の見世の間、おいえの間、居間、仏間、奥座敷、台所、2階の書斎からなる。
書斎は、名声があがりはじめた53歳の時、物置を改造したものである。その床の近くに36個の鈴を掛けたことにちなみ、この書斎を鈴屋と命名した。
宣長の主な著作はこの部屋で書かれたのである。

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本居宣長旧宅跡 附 春庭旧宅・土蔵

江戸時代/魚町1645/指定面積:436.36平方メートル
昭和28年3月31日国特別史跡指定

この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が、承応3年(1654)に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものである。本町の家が、小津家の本宅であり宣長が生まれた家であるが、現在は何も残らない。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていた。
この周囲には、向かいに御目見得医で親友の小泉見卓、門人長谷川常雄、本町には三井高蔭、中町にも門人の殿村安守、後に宣長養子となる稲懸大平などの屋敷が、まさに指呼の間にあった。
これらも宣長の門人との協力体制を強固にした要因であったといえる。
宣長宅が移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部の樹木は残されて当時の名残を今に留めている。また、礎石なども復元され、傍らには宅跡碑が建つ。

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本居宣長墓 附本居春庭墓

江戸時代/新町874 樹敬寺/指定面積:9.42平方メートル
昭和11年9月3日国指定

宣長の墓は二つある。
山室の奥墓(おくつき)と、菩提寺樹敬寺の墓である。
樹敬寺は少年宣長に大きな影響を与えた寺で、塔頭嶺松院(たっちゅうれいしょういん)の歌会には、44年にわたり参加した。
奥墓が、晩年仏教を廃した宣長の思想の象徴であるならば、妻や家族と眠るこの墓は、社会の一員、また小津家・本居家の当主としての自覚の象徴と見てよい。碑面には宣長と妻勝の戒名「高岳院石上道啓居士」「円明院清室恵鏡大姉」(宣長筆)と刻む。
その背後には、長男春庭と妻壱岐の墓がある。
二人の戒名は「明章院通言道永居士」「雅静院淑和慧厚大姉」。
いずれもその生涯を象徴する文字が選ばれている。
またこの墓地には、宣長の祖先の歴代小津家、子孫である本居家の合計26基の墓がある。

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久保古墳

古墳時代(4世紀)/久保町草山1170/指定面積:4,295平方メートル
昭和56年3月30日県指定

パークタウン学園前団地内に残る径52.5m、高さ6mの規模を有する二段築成の円墳で、南勢地方では最大規模を誇る。
明治45年に盗掘を受け、漢式鏡2、車輪石3、鍬形石2、勾玉5、管玉多数が出土したと伝えられるが、五島美術館所蔵の三角縁神獣鏡2面以外は定かではない。
三角縁神獣鏡の内1面は、面径23.1cmの舶載鏡で、岡山県湯迫車塚古墳・京都府椿井大塚山古墳・静岡県上平川大塚古墳のものと同笵である。
舶載三角縁神獣鏡は、畿内勢力がその勢力を拡大する過程で、各地の首長に配布し、後、古墳に副葬されたとされる鏡である。
このことから、本墳は伊勢地方で最も早い4世紀後半頃に築造された、畿内勢力と深い関わりをもつ首長の墓と考えられる。

宝塚古墳

古墳時代(5世紀)/宝塚町120-1 外・光町20/指定面積:26,787.4平方メートル
昭和7年4月25日国指定

宝塚古墳群は、松阪市の中央部に位置し、北側に伊勢平野を広く望める南北1km、東西1.25kmの丘陵一帯に築造された古墳群である。
昭和3年の鈴木敏雄氏の踏査によれば88基の古墳が所在していたという。  
このうち1・2号墳は、伊勢湾西岸で最大級の墳丘規模を誇り、当時の歴史を知る重要な遺跡として、昭和7年に国指定史跡となり、2基を併せて「宝塚古墳」として指定名称になっている。
その後高度経済成長にともない開発が進み、現在は古墳群一帯は住宅地に変貌し、わずかに1・2・4号墳の3基が残るのみである。
1号墳は眺望のよい丘陵頂部にある伊勢地方最大の前方後円墳で、平成11年からの史跡整備事業にともなう発掘調査によって、全長111m、後円部径は75m、高さ11 m、前方部は幅66m、高さ7mであることがわかった。くびれ部北側には、東西18m、南北16mの造り出しが幅3m、長さ5mの土橋によって古墳本体とつながることも判明した。
1号墳は造り出し周辺から全国で初の例となる船上に立ち飾りを持つ船形埴輪や導水・湧水などの表現をしたとみられる土製品をともなう囲形埴輪など、様々な埴輪類が約140点、埋設されたままの状態で見つかっている。
1号墳の北側の一段低い丘陵に隣接してつくられた2号墳は、低平な前方部を1号墳に向けた帆立貝形の古墳である。発掘調査によって、全長89m、後円部径83m、高さ10.5m、前方部の幅38m、高さ3mであることがわかった。
発掘調査の結果、宝塚1号墳は5世紀初頭の築造で、被葬者は伊勢湾西岸の広い範囲に影響力をもつ「王」であっただろうと推定される。また、2号墳は出土した埴輪類から5世紀前半の築造で、被葬者は1号墳の後継者と推定される。
[写真は1号墳造り出し]

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本居宣長奥墓

享和元年(1801)/山室町高峰1365/指定面積:231.14平方メートル
昭和11年9月3日国指定

宣長が亡くなったのは、享和元年9月29日、現在の11月5日。落ち葉散り敷く季節であった。
亡骸(なきがら)は山室の妙楽寺山頂に葬られた。木立の向こうには、松阪の町、遠く三河や、富士の頂きまでも望めたという。墓石には「本居宣長之奥墓」(自筆)と刻まれる。
その背後には好きだった山桜が植えられている。墓は概ね『遺言書』に基づき設計されたが、明治時代この地に山室山神社が創建され、付近の景観は大きく変わった。
「山室に千とせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め」。
亡くなる1年前に、門人たちとこの地に遊び、墓所を選定した時の歌である。
平成13年、宣長没後200年を記念し、墓は『遺言書』に沿った姿に復元整備された。
参道には、門人で版木師植松有信の歌碑などがある。

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大河内城跡

室町時代/大河内町城山・マムシ谷外/指定面積:51,051.33平方メートル
昭和12年11月5日県指定

標高110m余りの丘陵突端部一帯、300m四方の範囲内に築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷が巡って自然に要害の地を形成している。
城の縄張りは本丸を中心に北を大手口、南を搦手口とし、西に西ノ丸、東に二ノ丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切りや台状地が残る。
本城は応永年間、伊勢国司北畠満雅により築城され、弟顕雅(あきまさ)が入城して、その子孫は代々「大河内御所」を称した。
永禄12年(1569)8月、本城をめぐって北畠具教軍と織田信長軍が敵対し、北畠軍は50日にもおよぶ籠城戦に耐え、やがて和睦が成立している。
この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と称賛されたが、天正3年(1575)には信長の次男北畠信雄により解体されている。